二風谷アットゥㇱの歴史を年代別にかんたんに紹介
18世紀初頭: 沙流川流域がアットゥㇱの産地として文献史料で最初に記録される。
1792年 (寛政4年): アットゥㇱが「八升入りの米一俵」と交換されたとの記録が資料(網走市史編纂委員会 1958年〈昭和33年〉)に残る。
1878年 (明治11年): 英国の旅行家イザベラ・バードが『日本奥地紀行』で二風谷のアットゥㇱのことに触れる。
1881年 (明治14年): オーストリアの外交官・考古学者ハインリッヒ・フォン・シーボルトが『蝦夷島におけるアイヌの民族学的研究』を発表。この中で現在とほぼ同じ織機のペラ(へら)が記録されている。
1904年 (明治37年): 米国シカゴ大学の人類学者フレデリック・スターが収集したアイヌ工芸品に沙流川流域のアットゥㇱが含まれていたことが記録される。
昭和20年代末 (1945年頃): 民芸品を取り扱う企業の買い付けが増え、二風谷のアットゥㇱが地場産業として発展する。
2013年 (平成25年) 3月: 二風谷アットゥㇱが二風谷イタとともに、北海道で初めて経済産業大臣から伝統的工芸品としての指定を受ける。
二風谷アットゥㇱの歴史(詳細)
二風谷アットゥㇱの歴史は、アイヌの女性たちが家族のために木の皮から糸を紡ぎ、衣服を織ることから始まりました。冬場の過酷な環境、特に氷点下20℃での生活を乗り越えるために、丈夫な布が必要でした。初めは家族のための織物だったアットゥㇱは、徐々に和人との交易の品として用いられるようになった。地理的に海産物に恵まれていない沙流川流域では、交易の手段として手工芸が発達し、二風谷アットゥㇱは質の高さから和人の間で盛んに流通し始めました。
水に強い性質から、北前船の船乗りたちやニシンの漁場での仕事着としても愛用され、歌舞伎役者がアットゥㇱを着る演目も登場しました。外国人旅行者もその特性に触れ、18世紀から文献や資料にその名が見られるようになりました。その中でも、1792年の記録にはアットゥㇱが米と交換された事例が記されています。二風谷では技術と伝統が地域の工芸振興の中で継承されてきた。昭和20年代末からは、民芸品としての需要が高まり、二風谷のアットゥㇱは地場産業として発展。生産の分業も進み、男性も樹皮の採取に参加するようになった。そして、2013年には二風谷アットゥㇱが北海道で初めて経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。現代でも、二風谷民芸組合を中心にアットゥㇱの技術継承や製作物の販売が行われています。