南風原花織

南風原花織の歴史~多彩な色彩と立体感のある柄~

南風原花織の歴史を年代別にかんたんに紹介

明治時代(1868年~1912年) - 南風原花織の技法が母から娘へ伝承され始める。明治後期に出征する兵士への贈り物として花織り手拭が作られた。
1914年(大正3年)4月 - 南風原村立女子補修学校が設立され、多くの村内の女性たちが花織りなどの技術を習得し、独自の技法を発展させる。
1964年 - 約90年ぶりに読谷山花織が復活し、浮き織で表現される「花」模様に基本的な図柄が確立される。
戦後時代 - 生き残った人々が貧窮から織物生産に励み、伝統的な技法と柄を守りながら生産を続ける。

南風原花織の歴史(詳細)

南風原花織は、その技術が母から娘へと伝承されてきた伝統的な織物であり、明治時代からその技法が受け継がれ、現代に至るまで改良されながら織り続けられています。明治後期には出征する兵士への贈り物として花織り手拭が作られ、大正3年(1914年)には南風原村立女子補修学校が設立され、多くの村内の女性たちが花織りや斜文織りなどの技術を学び、喜屋武八織や照屋花織などの独自の技法が確立されました。戦後、生き残った人々が貧窮の中から織物生産に励み、伝統的な技法と柄を守りつつ意欲的な生産を続けています。

また、読谷山花織については、600年の歴史を持ちながらも明治時代中頃に衰退し、「幻の花織」となったものが1964年に約90年ぶりに復活しました。浮き織で表現される花模様には、「ジンバナ」「カジマヤーバナ」「オージバナ」といった3つの基本的な図柄があり、それぞれ特別な意味を持っています。これらの基本模様に縞や格子を組み合わせることで、より複雑な模様が生み出され、素朴でありながら立体感と華やかさを兼ね備えた織物となっています。

これらの情報から、南風原花織及び読谷山花織は、沖縄県の伝統的な織物として長い歴史を持ち、世代を超えて技術と文化が伝承され、現代においてもその価値が高く評価され続けていることがわかります。

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