秀衡塗の歴史を年代別にかんたんに紹介
平安時代末期: 奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡が京から職人を招き、秀衡塗の起源となる漆器を製作。
12世紀: 伽羅之御所や柳之御所から漆芸品や関連道具が発掘される。中尊寺金色堂の内陣部分に漆芸技術が用いられる。
16世紀 (安土桃山時代): 現存する最古の秀衡椀が製作される。
明治・大正時代: 無地の椀やお膳を主とする「増澤漆器」が主流となり、秀衡椀の装飾技術が途絶える。
昭和11年: 翁知屋2代目・佐々木誠が金箔はり技術を開発し、古代秀衡椀を再現・復活。日本橋の高島屋で展示される。
昭和12年: 民芸運動家・柳宗悦が研究者一団とともに旧衣川村増澤地区を訪れる。
昭和時代以降: 秀衡椀がメディアや日本民芸館で取り上げられ、増澤漆器と合わせて「秀衡塗漆器」として製作されるようになる。
秀衡塗の歴史(詳細)
秀衡塗は平安時代末期に平泉で栄え、その起源は奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡に由来します。彼は京から職人を招き、平泉地域特産の漆と金を豊富に使用して器を製作させました。この時代の平泉には高度な漆芸技術が存在しており、世界遺産である「中尊寺金色堂」の内陣部分にも漆・金箔・金銀蒔絵・螺鈿(らでん)といった漆芸技術が用いられています。さらに伽羅之御所や柳之御所からは、12世紀の漆芸品や関連道具が発掘されています。
地元の人々は「秀衡椀(古代秀衡碗)」と呼ぶこれらの漆器は、平泉近隣の大農家へと伝わりました。最古の存在が確認されている秀衡椀は、16世紀の安土桃山時代のもので、江戸時代までの品が現存しています。しかしながら、明治・大正時代には増澤漆器として無地の椀やお膳が主流となり、秀衡椀の装飾技術は途絶えました。
昭和11年、翁知屋2代目・佐々木誠は独自に金箔はり技術を開発し、古代秀衡椀を再現・復活させることに成功しました。その技術が日本橋の高島屋で展示されると、民芸運動家・柳宗悦の目に止まり、彼は翌年研究者一団とともに旧衣川村増澤地区を訪れました。その後、秀衡椀はメディアや日本民芸館で取り上げられ、増澤漆器と共に「秀衡塗漆器」として製作されるようになりました。