浄法寺塗

浄法寺塗の歴史~高品質な国産漆による伝統漆器~

浄法寺塗の歴史を年代別にかんたんに紹介

神亀5年(728年)
僧の行基が岩手県北部の浄法寺地域に天台寺を建立。
中央から派遣された僧侶が漆器作りの技術を持ち込む。

中世
浄法寺塗の名前が豪族「浄法寺氏」に由来することが始まる。

江戸時代
浄法寺塗は南部藩の重要な産物として知られるようになる。
産地が天台寺周辺から旧安代町付近まで拡大。
藩主への献上品として、金箔を施した「箔椀」が制作される。

明治時代
「箔椀」の制作は廃れる。
一方で、御山御器を始めとする庶民向けの漆器の需要が高まる。

大正〜昭和時代
浄法寺塗が国内で普及し、朝鮮や中国などの海外にも販路が拡大。

戦後
洋風文化の流入により浄法寺塗が一時衰退の危機を迎える。
しかし、関係者の努力で継承される。
二戸市浄法寺町での生漆の生産が国内の約7割を占める。

浄法寺塗の歴史(詳細)

浄法寺塗の歴史は、岩手県北部の地名「浄法寺」と関連があり、その名前は中世にこの地域を支配していた豪族「浄法寺氏」に由来します。浄法寺塗の起源とされる場所は、霊山・八葉山にある天台寺で、開山は奈良時代の神亀5年(728年)とされています。伝承によれば、僧の行基がこの地に天台寺を建立した際、中央から派遣された僧侶が漆工技術を持ち込み、彼ら自身の使用のための器を作り始めました。この技術はやがて参拝者にも供され、庶民の間にも広がっていった。この時代の漆器は「御山御器(おやまごき)」と称され、主に飯椀、汁椀、皿の三椀を指し、庶民に親しまれました。

江戸時代には、浄法寺塗は南部藩の重要な産物となり、産地は天台寺周辺から旧安代町付近まで拡大しました。特に、藩主への献上品として高雅な「箔椀」と呼ばれる金箔を施した漆器も制作されました。しかし、明治時代に入ると箔椀は廃れましたが、御山御器などの庶民向けの漆器は人気を保ち、大正から昭和の期間には国内での普及とともに、朝鮮や中国へも販路が広がりました。

戦後、洋風文化の流入により浄法寺塗は一時期衰退の危機に見舞われましたが、関係者の努力により継承され、現在もその伝統が息づいています。特に、浄法寺塗は余分な彩色や模様を持たず、黒漆や朱漆で仕上げられた素朴な外見が特徴で、その風合いは僧侶たちが築いた工芸の趣が感じられます。また、二戸市浄法寺町は国内随一の生漆の生産地でもあり、国産漆の約7割を生産していることも付け加えると、漆掻き技術の伝承が非常に重要であることが分かります。

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