益子焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
1853年: 大塚啓三郎によって益子焼が創始される。啓三郎は茨城県笠間で技術を習得し、益子村で窯を築く。
1903年: 明治36年、「益子陶器同業組合」が設立される。
1924年: 大正13年、人間国宝の濱田庄司が益子に窯を築き、民芸陶器の製作を始める。
1930年: 濱田庄司が益子で制作を続け、民芸陶器の製作が盛んになる。
1940年: 太平洋戦争中、金属の代わりに陶器が使われ、益子焼の需要が増加する。
1955年: 関東大震災後、台所用品の需要が増加し、益子焼が売れ行きを伸ばす。
益子焼の歴史(詳細)
益子焼の歴史は、江戸時代の嘉永6年(1853年)に、大塚啓三郎によって始まりました。啓三郎は茨城県笠間で陶芸の技術を習得し、益子村内の大津沢で良質な陶土を発見した後、根古屋に窯を築きました。この地は現在の益子小学校付近であり、益子焼は笠間焼の流れを組んでいます。
当時の益子は黒羽藩によって治められており、瀬戸焼が国内で発展していたため、益子焼も瀬戸焼として生産され、水がめ、擂鉢、土瓶などの台所用品が主流でした。大塚啓三郎は資金を藩に申し込み、その貸付と管理を受けることで、益子焼の発展を支えました。
益子焼は、主に関東地方に出荷され、明治時代の末までには良く売れましたが、売れ行きが良すぎるあまり粗製品まで乱売され、信用が落ちました。この問題に対応するため、明治36年(1903年)10月に「益子陶器同業組合」が設立され、「益子陶器伝習所」で職人の技術向上が図られました。
大正13年(1924年)には人間国宝の濱田庄司が益子に窯を築き、益子焼の発展に寄与しました。濱田の活動と民芸運動の提唱は、益子焼を民芸品として高め、多くの作家が益子焼の民芸品を作るきっかけとなりました。太平洋戦争中には、陶器の需要が増え、益子焼は丈夫で安いためたくさん売れました。
こうして益子焼は、伝統的な製法を守りながら、時代に合わせて変化し続け、現在に至っています。