瀬戸染付焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
10世紀:猿投窯が知多半島や三河等の地域に拡散し、瀬戸にも灰釉陶器の生産が始まる。
12世紀後半:瀬戸窯で施釉陶器の生産が始まり、山茶碗などが作られる。
鎌倉時代初期:四耳壺・瓶子など「古瀬戸」の生産が開始される。
鎌倉時代後期:灰釉に加え鉄釉を施すものが登場し、華やかなやきものが多く生産される。
室町時代:生活用具の生産が中心となり、使う製品が生産の中心となる。
江戸時代後期:磁器生産が本格的に開始され、染付技法が確立される。
19世紀初め:加藤民吉等が磁器の焼成技術を瀬戸で広め、瀬戸染付焼の基礎が確立される。
明治時代:大量生産のための技術革新が進み、「陶都瀬戸」が確立される。
瀬戸染付焼の歴史(詳細)
瀬戸染付焼の歴史は19世紀初めに加藤民吉等によって磁器の焼成技術が瀬戸で広められたことに始まります。この時期、絵師から絵付けの指導を受け、南宋風の絵画技術が加わり、急速に発展していきました。白地の素地に藍色を基調とした色彩で繊細な自然画や鳥、花などを描く技術と、本焼成時に一定時間高温の状態を維持する「ねらし」を行い釉薬を熟成させることで、潤いを持った仕上がりを特徴とする染付焼が確立されました。
10世紀からは猿投窯から派生し、北隣の瀬戸でも灰釉陶器が生産され始め、近隣地域向けに生産されました。12世紀後半には施釉陶器の生産が始まり、鎌倉時代初期には四耳壺や瓶子などの「古瀬戸」の生産が開始され、瀬戸窯が国内唯一の施釉陶器生産地としての地位を築きます。この時期から古瀬戸の隆盛が始まり、鎌倉時代の後期には灰釉に鉄釉を加えたやきものが多く生産され、室町時代には生活用具の生産が中心となりました。
江戸時代後期からは磁器生産が本格化し、加藤民吉らによって染付技法が確立され、瀬戸染付焼は華麗な装飾と技術で知られるようになりました。明治時代には大量生産のための技術革新が進み、「陶都瀬戸」が確立されました。瀬戸染付焼はその長い歴史の中で、技法や装飾が発展し続け、現代に至るまで多様な器が生産されています。