伊勢形紙

伊勢形紙の歴史~趣のある四種類の彫刻技法~

伊勢形紙の歴史を年代別にかんたんに紹介

奈良時代:型紙の起源に関する伝説が始まる。孫七や子安観音の和尚に関する話がある。
平安時代:型売り業者の存在が伝えられている。
室町時代:応仁の乱時に京都から逃れてきた型彫り職人が型紙の技術を伝える。
江戸時代:白子が紀州藩の天領となり、伊勢型紙が紀州藩の保護を受けて大きく発展。
1619年:白子の型紙作りが紀州徳川藩の傘下となり、産地として全国に名を馳せる。
明治時代:株仲間が解散し、衣服文化の変化と共に伊勢型紙の消長が続く。
昭和40年代:伊勢型紙の需要がピークを迎える。
太平洋戦争時:型紙業者が激減し、大きな打撃を受ける。
1955年:重要無形文化財「伊勢型紙」の技術保持者として6名が認定される。
1983年:伊勢型紙が国の伝統的工芸品(用具)に指定される。
現代:技術保存会が設立され、新しい活用方法が模索されている。

伊勢形紙の歴史(詳細)

伊勢型紙の歴史は、奈良時代に始まり、孫七や子安観音の和尚によって型紙が思いつかれたという伝説や、平安時代に型売り業者が存在していたという説、さらには応仁の乱時に京都から逃れてきた型彫り職人が技術を伝えたという話にまで及びます。しかし、これらの起源については特定できる説はなく、未だ解明されていません。江戸時代には、白子が紀州藩の天領となり、伊勢型紙は紀州藩の保護を受けて大きく発展しました。この時期には武士の裃に用いられる型染めが細かくなり、型を彫る職人と染める職人の協同作業により、伊勢型紙は全国的に広まりました。

明治時代に入ると、江戸時代に組織された株仲間は解散し、衣服文化の変化と共に伊勢型紙の需要も変動しました。太平洋戦争では大きな打撃を受け、型紙業者が激減しましたが、戦後の復興と共に着物の需要が増え、昭和40年代にはピークを迎えました。しかし、新しい技術の普及によって徐々に型紙の需要は減少していきました。

現代では、着物離れが進み、型紙の需要がさらに減少していますが、伊勢型紙の技術を保存し、伝えていくための努力が続けられています。技術保存会の設立や、照明器具や建築建具への応用など、新しい活用法を模索している状況です。伊勢型紙は、1000年の歴史を持ち、三重県鈴鹿市で発展してきた背景には、京都との結びつきや紀州からの伝搬など、他地域との関連が深いことが指摘されています。伊勢型紙は1619年に紀州徳川藩の保護を受け、産地として全国に名を馳せ、近代化の流れの中で繁栄と衰退を繰り返しながらも、その技術と文化は現代に引き継がれています。

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