博多織の歴史を年代別にかんたんに紹介
1202年(鎌倉時代) - 博多の商人「満田弥三右衛門」が生まれる。
1235年 - 満田弥三右衛門と聖一国師が中国宋へ渡り、織物の技術を含む様々な技術を学ぶ。
1241年 - 満田弥三右衛門と聖一国師が帰国。博多で織物の技術を家伝としてさらに工夫・改良し、「博多織」の名をつける。
江戸時代後期 - 福岡藩主黒田長政が博多織を幕府への献上品として選び、「献上博多」と呼ばれるようになる。
博多織の歴史(詳細)
博多織の歴史は、1202年に生まれた博多の商人「満田弥三右衛門」と、彼と共に1235年に中国宋へ渡った「聖一国師」によって始まりました。彼らは6年間の留学期間中、様々な技術を学び、1241年に帰国しました。満田弥三右衛門は織物の技術を含む多くの技術を習得し、これらの技術を基に、家伝として織物の技術をさらに工夫・改良していきました。そして、博多に「承天寺」を建てた聖一国師と共に、その地で織り出された織物に「博多織」と名を付けました。
この技術は代々受け継がれ、満田弥三右衛門の子孫である彦三郎が250年後に再び明へ渡り、織物の技法を研究しました。帰国後、工法の改良を重ね、特徴的な模様の浮き出た厚地の織物を作り出しました。この土地、博多の地名から「博多織」と名付けられ、その名が広く知られるようになりました。
江戸時代には、福岡藩主黒田長政が幕府への献上品として博多織を選び、「献上博多」と呼ばれるようになりました。毎年3月には帯地十筋と生絹三疋を献上する慣習がありました。博多織は、福岡が中国大陸との交流が盛んな地であったこと、およびその技術が中国から伝えられたこと、そして満田弥三右衛門やその子孫による工夫と改良を経て、現在に至るまで高い技術と美しさを保ち続けていることが伝えられています。