八重山上布の歴史を年代別にかんたんに紹介
かなり古い時代 - 八重山上布の苧麻(ちょま)が着衣の素材として用いられ始める。
1673年 - 八重山諸島に御用布(貢納布)として義務付けられる。
1886年 - 人頭税が廃止され、八重山上布の産業化が進む。
1903年 - 過酷な人頭税制の歴史が終わり、伝統工芸品の精錬された上布として織り継がれるようになる。
大正時代 - 織機が改良され、「綾頭(あやつぶる)」が織機の一部になり、品質が向上。
第二次世界大戦後 - 八重山上布も一時期は後継者が途絶える危機に瀕するが、沖縄県や石垣市などの後継者育成事業により現在の生産体制が確立。
八重山上布の歴史(詳細)
八重山上布の起源は定かではないものの、『李朝実録』などの古い文献によれば、かなり古い時代から苧麻が着衣の素材として用いられていたことがわかります。琉球王府時代には、王府の絵師が図柄を作成し、色の豊かさと細かい織りで上質の麻布が王府ゆかりの人々によって着用されるようになりました。特に1673年には八重山諸島に御用布(貢納布)として義務付けられ、白上布や赤縞上布などが納められていました。薩摩の侵略後、14歳以上の婦女子に人頭税が課せられ、厳しい貢納布制度が実施されたことで技術が向上し、精緻な織り柄が生み出されるようになりました。これにより八重山上布は琉球王府で大変貴重な品となり、限られた人々だけのものとなりました。
1886年に人頭税が廃止されると、八重山上布の産業化が進み、「短機」織機が考案されるなど技術革新が進みました。大正時代には織機が改良され、品質がさらに向上しました。第二次世界大戦で八重山上布産業も壊滅的な打撃を受けましたが、戦後、沖縄県や石垣市の努力によって後継者育成事業が進められ、現在に至る生産体制が確立しました。八重山上布は今も時を超えて精錬された伝統工芸品として織り継がれており、紅露染めの落ち着いた茶絣や藍絣柄など、その特徴的な美しさで世代を問わず愛され続けています。