笠間焼
の歴史を年代別にかんたんに紹介
1772年: 笠間焼の始まり。久野半右衛門が信楽焼の陶工の指導を受けて開窯。
1850年: 江戸時代末期、笠間焼の技術が近隣地域へ広まり、益子焼が生まれる。
1868年: 内国博覧会で笠間焼の茶壺が一等を受賞し、全国的に知られるようになる。
1889年: 水戸線開通により、笠間焼の販売経路が広がる。
1950年: 茨城県立窯業指導所設立。
1963年: 笠間市に陶芸団地を建設。
1972年: 笠間市に窯業団地を建設。
1992年: 笠間焼が国の伝統的工芸品に指定される。
笠間焼
の歴史(詳細)
笠間焼の歴史は江戸時代中期の安永年間(1772~1781年)に始まります。この焼き物は、笠間藩・箱田村(現在の笠間市箱田地区)の名主であった久野半右衛門が信楽焼の陶工の指導を受けて開窯したことが起源です。その後、笠間藩の仕法窯として保護され、日用雑器の生産が行われました。
幕末から明治時代にかけて、笠間焼は江戸に近い立地を活かし、大量生産を開始。特に厨房用粗陶品の産地として知られるようになりました。この時期、修行した陶芸家たちが技術を広め、笠間焼と兄弟関係にある益子焼が生まれました。
明治維新後、笠間焼は一時低迷しましたが、行商の身であった田中友三郎の努力により、すり鉢と茶釜の知名度が高まり、復興の兆しを見せました。1868年の内国博覧会で茶壺が一等を受賞し、全国に名を知られるようになりました。1889年の水戸線開通により、販売経路が広がり、笠間焼は隆盛期を迎えました。
しかし、戦後のプラスチック製品の流入や生活様式の変化により、笠間焼の需要は減少しました。この危機に直面し、茨城県と笠間市は業界を支援。1950年に県立窯業指導所が設立され、技術の改良や製品の多様化が進みました。1963年と1972年には陶芸団地と窯業団地が建築され、若手の陶芸作家たちを誘致しました。これにより、笠間焼は伝統に縛られない自由な制作風潮を生み出し、再び活気を取り戻しました。
1992年、笠間焼は国の伝統的工芸品に指定され、現在では約300人の陶芸家や窯元が存在する窯業産地となり、「歴史と芸術の町」観光都市笠間を支える大きな柱となっています。新たな技法が加わり、「笠間火器」など新しい商品が生み出されています。