萩焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
1500年代後半
- 朝鮮李朝の陶工李勺光によって萩焼が毛利藩の御用窯として開窯される。
文禄元年(1592年)
- 豊臣秀吉の朝鮮出兵時に萩焼の歴史が始まる。この出兵は「やきもの戦争」とも呼ばれる。
1604年
- 毛利輝元が広島から萩に移封され、李兄弟も萩に移り、萩の松本村で萩焼が始まる。
1653年頃
- 山村家と弟子たちが長門市湯本に窯を築き、萩焼が毛利家御用窯の松本焼と深川焼に大きく分かれる。
1663年
- 初代三輪休雪が御用窯に取り立てられ、松本焼の生産強化が図られる。
1892年
- 大和作太郎松緑が萩から山口市宮野へ移り、宮野焼(松緑焼)を開窯。
1985年(昭和60年)
- 萩焼が国の「伝統的工芸品」に指定される。
2006年(平成18年)
- 萩焼が「地域団体商標」(地域ブランド)に登録される。
現代
- 萩焼は約400年の歴史を持ち、萩市を中心に長門市、山口市を含む広範囲で製作が行われている。伝統と革新を追求する陶芸家により、萩焼の精神が受け継がれている。
萩焼の歴史(詳細)
萩焼の歴史は、1500年代後半に朝鮮李朝の陶工李勺光によって毛利藩の御用窯として開窯されたことに始まります。この伝統は約400年にわたり受け継がれ、萩市を中心に長門市、山口市を含む広範な地域で萩焼の製作が行われています。萩焼は江戸時代、周防・長門の二国を領有する毛利氏の御用窯として発展しました。その起源は文禄元年(1592年)に豊臣秀吉の朝鮮出兵時に遡り、この出兵は「やきもの戦争」とも呼ばれ、西国大名たちは朝鮮の陶工を日本に連れ帰りました。萩焼の始祖である李勺光と李敬兄弟はこの時、毛利輝元に預けられ、関ヶ原の戦い後、輝元が萩に移封された際に共に移り、萩の松本村で萩焼が始まりました。
初期の萩焼は高麗茶碗の写しとして知られ、主に防府市の大道で取れる土が使用されました。1653年頃、山村家と弟子たちが長門市湯本に窯を築き、萩焼は毛利家御用窯の松本焼と深川焼に大きく分かれます。1663年には三輪休雪が御用窯に取り立てられ、松本焼の生産強化が図られました。江戸中期には全国的に磁器が盛んになり、萩市小畑では民間の磁器窯も出現しましたが、明治から昭和にかけて衰退しました。
1892年には大和作太郎松緑が萩から山口市宮野へ移り、宮野焼を開窯しました。明治時代に入ると御用窯は民営化され、経済の近代化や生活の欧米化により、伝統工芸の衰退が進みました。しかし、大正期には深川焼の十二代坂倉新兵衛が表千家に入門し、萩焼の発展に尽力し、「1楽、2萩、3唐津」という言葉が生まれ、萩焼はその知名度を上げました。十代三輪休雪(休和)が「休雪白」を進化させ、人間国宝に認定されるなど、萩焼は文化的価値を高めてきました。
戦後の好景気や焼物ブームの中で、萩焼は発展を続けてきましたが、バブル崩壊後には量産窯を中心にいくつかの窯元が廃業しました。現在でも県内には多くの窯元があり、萩焼の伝統と革新を追求しています。