大内塗

大内塗の歴史~丈夫で退色しにくい加工の伝統漆器~

大内塗の歴史を年代別にかんたんに紹介

1485年
- 「大内氏の掟書」と「李朝実録」により、大内氏が山口で漆工芸を盛んに行っていたことが記録されています。

15世紀
- 大内氏が中国・朝鮮との貿易の中で漆製品を重要な輸出品としていたことが確認されます。

室町時代
- 山口市が「西の京都」と呼ばれ、大内文化が栄えました。

江戸時代
- 山口で漆器が制作されていたことが伝えられています。特に「椀屋三拾軒」が記録され、大量の漆器の生産が明らかにされています。

明治時代
- 大内塗が一度衰退しますが、郷土史学者近藤清石の尽力により再興されました。近藤清石は毛利家の蔵から大内千人椀を発見し、これを基に大内塗の復活を図りました。

1989年(平成元年)
- 大内塗が大内人形とともに国の「伝統的工芸品」に指定されました。

大内塗の歴史(詳細)

大内塗の歴史は、1485年の文献「大内氏の掟書」と「李朝実録」に記された内容により、大内氏が山口で漆工芸を盛んに行っていたことが確認できます。大内朱と呼ばれる深みのある朱色と秋草模様、金箔で装飾された大内菱が特徴で、1989年(平成元年)には大内人形とともに国の「伝統的工芸品」に指定されました。大内塗りの具体的な起源は明らかではありませんが、大内氏の時代や江戸時代に山口で漆器が制作されていたことは文献によって伝えられています。特に15世紀には、大内氏が大陸貿易の中で漆製品を重要な輸出品としていたことがわかります。

毛利家所蔵の大内椀や個人所蔵の漆塗足付盤など、現存する遺品からもその当時の漆工芸の盛んさをうかがうことができます。また、江戸時代には「椀屋三拾軒」が記録されるなど、大量の漆器が作られていたことが明らかにされています。明治時代に入ると、大内塗は一度衰退しましたが、郷土史学者近藤清石の尽力により再興され、大内時代の漆工芸が復活しました。近藤清石は毛利家の蔵から大内千人椀を発見し、これを基に大内塗の模作と技法の研究を進めました。

山口県山口市は「西の京都」と呼ばれ、室町時代には京都をしのぐ栄えた町として知られています。大内氏はこの地で中国・朝鮮との貿易を通じて財を築き、後に大内文化と呼ばれる時代を作り上げました。この文化の中心にあったのが漆塗職人によって製作された漆器であり、これが大内塗の始まりとされています。現在に至るまで、大内塗はその伝統を守りながらも新しい技法やデザインを取り入れ、進化を続けています。

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