鳴子漆器の歴史を年代別にかんたんに紹介
寛永年間 (1624年~1643年)
鳴子漆器の創始とされる時期。
岩出山伊達家3代当主、伊達弾正敏親が塗師や蒔絵師を京都に修行に派遣。
安永2年 (1773年)
「鳴子村風土記書出」に塗物、箸、楊枝などの産物が記録される。
文化2年 (1805年)
「漆出高記」にて、鳴子で漆の採取が行われていたことが記録される。
江戸時代後期
温泉湯治が流行し、鳴子漆器の需要が高まる。
明治時代
製造技法が二人挽きから一人挽き足踏みろくろに変化。
明治40年代に鳴子漆器の最盛期。
昭和26年 (1951年)
鳴子出身の漆工芸研究家、澤口悟一が「龍文塗」を考案。
鳴子漆器の歴史(詳細)
鳴子漆器の歴史は深く、その創始は今から350年以上も前、寛永年間(1624年~1643年)にさかのぼると伝えられています。当時、岩出山伊達家の3代当主であり岩出山城主であった伊達弾正敏親が、地域の発展のために塗師の田村卯兵衛や村田卯兵衛、そして蒔絵師の菊田三蔵を京都に修行に派遣しました。彼らが習得した技術を持ち帰ることで、鳴子漆器の製造が振興・発展しました。江戸時代後期には温泉湯治が庶民の間で流行し、多くの観光客が鳴子を訪れるようになりました。この時期、鳴子漆器はお土産としての需要が増加し、製作が盛んに行われた。18世紀後半、安永2年(1773年)に書かれた「鳴子村風土記書出」には、塗物や箸、楊枝などが鳴子の主要産物として記録されており、文化2年(1805年)の「漆出高記」では漆の採取が行われていたことが記されています。明治時代には技術が進化し、二人挽きから一人挽きの足踏みろくろへと変わり、製品の種類も増え、明治40年代に鳴子漆器は最盛期を迎えました。昭和26年(1951年)には鳴子出身の漆工芸研究家、澤口悟一氏が「龍文塗」という美しいマーブル模様の変わり塗りを考案し、これにより鳴子漆器はさらなる発展を遂げました。この歴史を通じて、鳴子漆器は現代にまで続いており、その技術や美しさが受け継がれています。