山形鋳物

山形鋳物の歴史~壮麗な風格と繊細な手触り~

山形鋳物の歴史を年代別にかんたんに紹介

平安時代の康平年間(1058年-1065年):源頼義が安部貞任宗任の乱を平定するため山形地方を転戦。この時、従軍していた鋳物師が山形地方の馬見ヶ崎川の土質が鋳物に適していることを発見し、何人かが留まり山形鋳物の始まりとなる。

慶長年間(1596年-1615年):山形領主となった最上義光が庇護し、鋳物師を集めて「銅町」を命名し、鋳物産地としての基盤を築く。

元和元年(1615年):京都などの先進地を視察した結果、山形ブロンズ鋳物の技術が確立。

江戸時代(1603年-1868年):銅町が出羽三山参りの門前町として発展。参拝客の増加に伴い、仏具や日用品が人気を博し、山形鋳物の名声が全国に広がる。

昭和49年(1974年):山形鋳物が国の伝統的工芸品として第一次に指定される。

山形鋳物の歴史(詳細)

山形鋳物の歴史は約900年前、平安時代に源頼義が乱を平定するために山形地方を転戦した際にその軍に従っていた鋳物師たちによって始まりました。彼らは山形市内を流れる馬見ヶ崎川の砂と付近の土質が鋳物に適していることを発見し、この地にとどまることを決めました。その後、慶長年間に山形領主となった最上義光によって城下町が再編され、鋳物産地としての基盤が築かれました。最上義光は火を扱う町づくりをし、鋳物師たちを集めて銅町を形成しました。これは日本における工業団地の始まりとも言われています。

銅町は、出羽三山参りの門前町としても有名で、夏の参拝者は一万人を超え、多くの参詣者が仏具や日用品を土産として購入し、これが山形鋳物の名声を全国に広める一因となりました。元和元年(1615年)には、京都などの先進地を視察した後、山形ブロンズ鋳物の技術が確立され、数十年のうちに梵鐘や灯籠などが製作されるまでに発展しました。

山形鋳物は、薄肉で繊細なデザイン、美しい鋳肌、寸法形状の正確さが特徴であり、特に茶の湯釜などは多くを山形鋳物が占めるなど、その技術力と完成度の高さが認められています。しかし、職人気質の強さから、大きな産地問屋が存在せず、分業制をとらず、家々で工程のすべてを行い販売まで手掛ける独特の生産体制があります。これにより、ものづくりへのこだわりや個性が育まれ、日用品であっても芸術品に劣らない造形と品質を持つ山形鋳物が生み出されています。

山形鋳物の根底には、出羽三山の主峰・月山の麓に位置するこの地の祈りの造形があります。仏具、仏像、梵鐘、燈籠などの精巧な製品は、山形の精神性を反映しています。また、鋳物師の家では「御金神(おかながみ)」と呼ばれる鋳物の神が祀られ、金属工芸に深く結びついています。

現代では、伝統的な技法を活かしながらも新しいデザインを取り入れ、現代生活に溶け込むプロダクトを数多く生み出しています。昭和49年には国の伝統的工芸品に指定され、その魅力を国内外に発信し続けています。

-山形鋳物