岩槻人形

岩槻人形の歴史~愛らしい表情が特徴の伝統人形~

岩槻人形の歴史を年代別にかんたんに紹介

1457年(長禄元年): 太田道灌公が関八州の北の砦として岩槻城を築き、岩槻の城下町としての歴史が始まる。
1603年(慶長8年): 徳川家康が江戸に幕府を開き、岩槻は江戸近郊の城下町、日光御成街道の宿場町として賑わう。
1634年~1647年(寛永年間): 三代将軍徳川家光が日光東照宮の造営に優れた工匠を全国から集め、岩槻で人形製造の技術が始まる。
1697年(元禄10年): 京都堀川の仏師恵信が岩槻に住み着き、桐粉を使った人形頭製造を開始。
1871年(明治4年): 岩槻藩が廃藩置県により岩槻県となり、その後埼玉県に合併。
第二次世界大戦中: 人形師の動員と人形衣装製造の中止が起こる。
戦後: 東京の人形師が岩槻に疎開し、人形の生産が再開。
1951年(昭和26年): 岩槻雛人形がテレビ、ラジオの宣伝により発展。
1960年代(昭和40年代): 岩槻の人形生産量が日本一になる。
2020年: 岩槻人形博物館が開館し、人形文化が保存される。
現在: 「江戸木目込人形」と「岩槻人形」が経済産業大臣から伝統的工芸品として指定されている。

岩槻人形の歴史(詳細)

岩槻人形の歴史は、長い時間をかけて発展してきました。室町時代の1457年に太田道灌公が岩槻城を築いたことで、岩槻の城下町としての歴史が始まります。1603年、徳川家康が江戸に幕府を開いた後、岩槻は江戸近郊の城下町として、また日光御成街道の宿場町として賑わいました。1871年の廃藩置県に伴い岩槻藩は岩槻県となり、埼玉県の初の県庁が置かれました。

岩槻の人形製造の起源は、寛永年間(1634年~1647年)に日光東照宮の造営に全国から集められた工匠たちが関係しています。その中には京都堀川の仏師恵信がおり、岩槻で病に倒れた後、残った桐粉を使って人形の頭を作り始めたとされています。岩槻は桐の産地で、胡粉の溶解や発色を良くする水にも恵まれていました。この技術は藩の武士や農家により受け継がれ、幕末には岩槻藩の専売品となりました。

岩槻が人形の産地になった理由は諸説あります。日光廊建設の際に伏見の人形師が岩槻に居住し始めた説、東照宮の大修理の際に京の仏師が岩槻に残り人形頭を作り始めた説、桐細工から発展した説などがありますが、確定はしていません。

第二次世界大戦中は人形師の動員や衣装製造の中止がありましたが、戦後は東京の人形師が岩槻に疎開し、人形生産が再開されました。昭和26年には岩槻雛人形がテレビ、ラジオの宣伝により発展し、昭和40年代には生産量が日本一になりました。しかし、時代の変化と共に生産量は衰退し、職人の引退も影響しました。昭和46年の人形従事者は6000人であったが、令和2年には販売者と生産者を合わせて45人に減少しました。2020年には岩槻人形博物館が開館し、岩槻の人形文化が引き継がれています。現在、「江戸木目込人形」と「岩槻人形」は経済産業大臣から伝統的工芸品として指定されており、日本一の人形の町としての地位を保っています。

-岩槻人形