十日町明石ちぢみ

十日町明石ちぢみの歴史~爽やかで涼しげ、心地の良い肌触り~

十日町明石ちぢみの歴史を年代別にかんたんに紹介

約400年前(1600年代初頭): 播州明石の船大工の娘・お菊が「明石ちぢみ」を考案。
享保年間(1716-1736年): 「明石ちぢみ」が絹糸と麻糸の交織であることが文献に記される。
明治20年頃(1887年頃): 新潟県柏崎町の越後縮問屋・洲崎栄助が十日町での「明石ちぢみ」生産を考案し、開発が始まる。
1894年頃: 「十日町明石ちぢみ」が製品として市場デビュー。
明治27年頃(1894年頃): 「十日町明石ちぢみ」が市場に送り出される。
大正年間(1912-1926年): 生産点数が3万反から15万反へと急成長。
1929年: 「十日町小唄」がコマーシャルソングとして発表され、人気を集める。
戦後(1945年以降): 生産数が激減。
1970年代後半: 吉澤織物による「十日町明石ちぢみ」の復刻が始まる。

十日町明石ちぢみの歴史(詳細)

十日町明石ちぢみの歴史は、400年前に播州明石の船大工の娘・お菊によって考案されたとされ、かんなくずをヒントにしたものです。また、豊後国小倉でも生産されていました。元々は木綿で作られていましたが、後に苧おと絹の交織、そして絹糸のみで織られるようになり、「明石本縮」と呼ばれました。明治20年頃、新潟県柏崎町の越後縮問屋・洲崎栄助が、西陣の織物業者が研究していることを見て、十日町での生産を考案。このアイディアを十日町の機業家「米忠」の佐藤善次郎に持ちかけ、「十日町明石ちぢみ」の開発が始まりました。金子幸吉、直井喜代八、浜間庄蔵といった当時の優れた技術者たちが開発に取り組み、明治27年頃に製品を市場に送り出しました。

明治時代に十日町では麻の縮から絹の縮へと変革を進め、1887年頃に「十日町明石ちぢみ」の開発が本格化し、1894年に製品として市場デビューしました。当初は需要が少なかったが、蒸絨加工と防水加工の発明により、「玉の汗にも縮まぬ明石」というキャッチフレーズで人気を博し、大正年間には生産点数が3万反から15万反へと急成長しました。1929年に作られたコマーシャルソング「十日町小唄」の影響で、さらに人気を集めました。

しかし、戦争中の統制経済により、戦後は生産数が激減しました。1970年代後半に『吉澤織物』によって復刻され、その人気は再燃しました。現在、同社では年間に多くの「十日町明石ちぢみ」が織られ、夏着物の代名詞として人気を博しています。

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