駿河雛具の歴史を年代別にかんたんに紹介
室町時代:駿河(現在の静岡)にて「ひいなはりこ」を若い婦人へ贈る風習が根付く。
江戸時代初期:2代目将軍徳川秀忠の久能山東照宮造営と3代目将軍徳川家光の浅間神社造営時、全国から集められた優秀な職人が木地指物、挽物、漆、蒔絵などの技術を駿府(現在の静岡)で発展させる。
明治15年(1882年)頃:静岡市で雛具の本格的な製造が始まる。
明治35年(1902年)頃:漆器業者が雛具製造に参入し、多彩な漆芸技法を使った雛具が作られ始める。
大正時代初め:問屋組合が結成され、全国的な雛具の販売が始まる。
昭和40年代:駿河雛具が全国シェアの90%を占める。
平成6年(1994年):駿河雛具が「伝統的工芸品」として認定される。
駿河雛具の歴史(詳細)
駿河雛具の歴史は室町時代に遡り、当時の駿河(現在の静岡)にて公家の風習に基づく「ひいなはりこ」を若い婦人へ贈る風習が根付いていたことがその起源とされています。江戸時代初期、徳川家康公が静岡浅間神社の造営のため、全国から優秀な職人を集結させた際に、木工や漆塗りなどの技術が発展しました。これが、後に雛具製造の礎となります。
明治15年(1882年)頃、静岡市で本格的に雛具の製造が始まり、木地指物、挽物、漆、蒔絵などの技術を利用した木漆工芸品が生産されました。明治35年頃には、漆器業者が雛具製造に参入し、多彩な漆芸技法を用いた製品が作られました。大正時代初めには問屋組合が結成され、東京の問屋と連携して全国に雛具を販売し、静岡の名声が全国に広まりました。関東大震災後には関東地方の職人が静岡へ移住し、高度な技術を駆使した製品が生産され、生産量はさらに上昇しました。
戦後、雛具の生産は急速に増加し、昭和40年代には全国シェアの90%を占めるまでに成長しました。平成6年(1994年)には、通産大臣(現経済産業大臣)から「伝統的工芸品」の認定を受け、その技術と美しさは広く認められています。駿河雛具は、その独特な技術と美しい装飾で長年にわたり多くの人々に愛され続けています。