赤津焼

赤津焼の歴史~多彩な技法が施された伝統陶器~

赤津焼の歴史を年代別にかんたんに紹介

奈良時代:赤津焼の起源とされる須恵器が焼かれ始める。
平安時代:日本最古の釉薬「灰釉」が出現し、灰釉を使った陶器が焼かれるようになる。
鎌倉時代:鉄釉、古瀬戸釉などの釉薬が生まれ、赤津焼の技法が発展。
安土桃山時代:茶道の発展の影響を受け、志野、織部などの技法が確立される。
江戸時代初期:尾張藩によって赤津焼が御用窯として確立され、高級茶器や日用食器を生産。
戦国時代:瀬戸山離散が起こり、美濃地方への窯の移動が発生。
1600年代:尾張藩の初代藩主の徳川義直(または徳川家康)の命により、瀬戸窯の復興が行われる。
1616年:名古屋城に赤津から陶工が呼び出され、御深井丸に窯が築かれる。
現代:瀬戸市に60余りの赤津焼の窯が存在し、日本の窯業の一大中心地となる。

赤津焼の歴史(詳細)

赤津焼は、奈良時代に始まり、その起源は須恵器にまで遡ります。平安時代には日本最古の釉薬である灰釉が出現し、赤津焼にも用いられるようになりました。この時代から瀬戸焼と共に発展し、瀬戸市の赤津地区には室町時代の窯跡が残るなど、長い歴史を有しています。鎌倉時代には、鉄釉や古瀬戸釉などの釉薬が生まれ、赤津焼の技法がさらに発展しました。特に安土桃山時代には、茶道の発展の影響を受け、志野や織部などの技法が確立され、赤津焼の根幹をなす技術が形成されました。

江戸時代初期には、徳川御三家の一つである尾張藩によって、赤津焼は尾張藩の御用窯として確立されました。高級茶器や日用食器などが生産され、御深井、志野、織部、黄瀬戸等の7種類の釉薬技法が確立しました。また、印花や櫛目など12種類の装飾技法が発展し、これらは現在の赤津焼に通じる重要な技法となっています。

戦国時代には瀬戸山離散と呼ばれる窯屋の減少が起こり、美濃地方への移動が発生しましたが、1600年代に入り、尾張藩の初代藩主の徳川義直(一説には徳川家康)の命により、赤津村で瀬戸窯の復興が行われ、赤津焼が再び蘇りました。1616年には名古屋城のために陶工が赤津から呼び出され、御深井丸に窯が築かれ、尾州御庭焼としても知られるようになりました。

現在、赤津焼は瀬戸市に60余りの窯が存在し、日本の窯業の一大中心地として発展しています。7種の釉薬と12種もの装飾技法が伝わり、茶道具、華道具、家庭用品など幅広い器が生産されていることが、その長い歴史と確立された豊かな表現力を物語っています。

-赤津焼