名古屋節句飾の歴史を年代別にかんたんに紹介
江戸前期:名古屋で各種の工芸技術が発達し始める。
江戸後期:人形や幟旗類が『尾張年中行事絵抄』に記されるほど発展。節句用の雪洞も製造されていた。
1700年代:「名府年中行事」に玉屋町と諸町の雛人形市が記載され、節句人形の生産が確認される。
1800年代:名古屋節句飾が京都の製品をしのぐ高品質として評判に。
明治時代:製造技術が向上し、東京から職人を招くことで技術を吸収し、名古屋が全国有数の節句飾産地として成長。
1916年:製造技法が確立し、より高品質な製品が作られるようになる。
2021年:経済産業大臣から伝統的工芸品として指定される。
名古屋節句飾の歴史(詳細)
名古屋節句飾の歴史は、尾張徳川家の城下町としての名古屋が舞台で、江戸前期より各種の工芸技術が発達していたことから始まります。特に、江戸後期には『尾張年中行事絵抄』に記されるほど、人形や幟旗類が工芸的に高度に発展していました。また、提灯製造が盛んであり、節句用の雪洞もその一種として作られていたことがわかります。
1700年代の書物「名府年中行事」には、玉屋町と諸町の雛人形市について記載があり、節句人形が既に生産されていたことが示されています。この玉屋町は現在の名古屋市西区にあたり、名古屋では昔から節句飾の職人が多数活躍していました。徳川家の城下町として栄えた名古屋は、工芸品の製造技術が発展し、品質の高い名古屋節句飾は周辺地域にも広まりました。
江戸時代には大名の息女が輿入れする際の嫁入り道具として雛人形が注目され、名古屋の職人は豪華な雛飾りを生産していました。1800年代には、京都の製品をしのぐ高品質な節句飾として評判になり、明治時代には製造技術がさらに向上しました。東京から職人を招き、優れた技術を吸収したことで、名古屋は全国有数の節句飾産地として成長しました。
1916年には製造技法が確立され、高品質な製品が作られるようになりました。現在も、多くの職人が一貫生産体制で製作を行い、東西の嗜好に合わせたさまざまな節句飾が生み出されています。2021年には、経済産業大臣から伝統的工芸品として指定されました。この長い歴史を通じて、名古屋節句飾は技術的にも芸術的にも発展を遂げ、今日に至っています。