四日市萬古焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
1718年:萬古焼の創始者・弄山が、桑名の豪商・茶人沼波家に誕生。
1736年:弄山が朝日町小向に開窯し、萬古焼の始まりとされる。
1870年:山中忠左衛門が四日市で萬古焼の窯を設立し、四日市萬古焼の始まり。
1911年:水谷寅次郎が半磁器の製造技術を開発し、「大正焼」として売り出す。
2009年(平成21年):「四日市萬古焼」が地域団体商標に登録される。
四日市萬古焼の歴史(詳細)
四日市萬古焼の歴史は、江戸時代中期に桑名の豪商で茶人だった沼波弄山が始めたことに由来します。沼波家は「萬古屋」という陶器の廻船問屋を営んでおり、弄山は茶道に精通し、京焼の技法を元に更紗模様やオランダ文字など異国情緒あふれる作品を生み出し、好評を博しました。彼の作品には「萬古不易」の印が押され、「何時の世までも栄える優れたやきもの」という意味を込められていました。これらの作品は、江戸時代には将軍家からも注文を受けるほどの人気を博しました。しかし、弄山の死後は継承者がおらず、一時的に萬古焼は途絶えてしまいます。
その後、江戸時代後期に森有節と千秋兄弟が萬古焼の復興を目指し、新しい萬古焼を生み出しました。彼らは古萬古の雰囲気を再現しつつ、独自の表現を見出し、特に煎茶急須の開発に成功しました。四日市萬古焼の始まりは、山中忠左衛門が水害の被害を受けた村民の救済のために窯を設立したことにあります。彼は製陶方法を学び、村民に伝え、四日市での萬古焼の産業としての発展を促しました。
明治末期、水谷寅次郎は半磁器の製造技術を開発し、「大正焼」として売り出しました。半磁器は陶器と磁器の中間的な性質を持ち、磁器の硬質さと陶器の柔らかさを兼ね備えています。この半磁器の出現により、四日市萬古焼は飛躍的に生産を伸ばし、全国有数の陶磁器産地として育っていきました。平成21年には、「四日市萬古焼」が地域団体商標に登録され、現在では紫泥急須や土鍋がその代表作とされています。始まりは1736~1740年に茶の趣味が高じて朝日町小向に窯を築いた沼波弄山からであり、その後も技術の開発や人材育成に努め、国内外に市場を広げています。