伊賀焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
約400万年前:古琵琶湖が伊賀の地に隆起し、この地層で採掘される粘土が伊賀焼に使用されるようになります。
729-749年(天平年間):伊賀焼の起源とされ、農民が農業に付随して生活雑器を焼き始めます。
1528-1532年(室町時代末期):太郎太夫・次郎太夫が伊賀丸柱で伊賀焼を再興し、伊賀焼の陶祖とされています。
1584年:筒井定次や藤堂高虎の時代、古田織部の指導で豪放で力強い茶陶が製作され、「古伊賀」と称されるようになります。
1669年(寛文9年):「御留山の制」が設けられ、伊賀焼は一時衰退しますが、18世紀中頃に藤堂藩の支援で日常雑器を中心に再び焼かれ始めます。
1832年:「長谷園」が築窯され、土鍋・行平・焙烙・土瓶など生活必需品の生産を始め、耐熱性の強い粘土を生かした製品で好評を博します。
伊賀焼の歴史(詳細)
伊賀焼の歴史は約1200年前の天平年間に遡り、農業に付随して生活雑器を焼き始めたことに始まります。この地域は古くから豊富な陶土と薪の燃料を利用して擂鉢や甕、壺などを焼いていたことが知られており、中世には五位ノ木窯跡などで信楽焼と同様の陶器が製作されました。伊賀焼は、大和地方に近い立地的利点と、日本美術の源である奈良朝の文化から影響を受け、室町時代末期には太郎太夫・次郎太夫が活躍し、製陶が専門業に分化しました。桃山時代には、筒井定次や藤堂高虎の時代に、古田織部の指導のもとで豪放で力強く、破格な美意識を持った茶陶が製作され、「古伊賀」と称されるようになりました。
しかし、寛文9年には「御留山の制」が設けられ、伊賀焼は一時衰退しましたが、18世紀中頃に藤堂藩の支援により再び日常雑器を中心に生産が始まりました。この時期から現代に至るまで、土鍋や食器を中心に茶陶も焼かれており、新しい伊賀焼を目指し作陶に励む陶芸家の姿も見られます。特に、約400万年前の古琵琶湖層で採掘される粘土を用いた「耳付花入」などの作品は、ポーラスな焼き物として特徴を持ち、伊賀焼の代表的な作品とされています。古伊賀は、川端康成によって「美しい日本の私」の講演で絶賛されるなど、日本陶磁の最高峰と評価されています。現在、伊賀焼は国指定の伝統工芸品として、その伝統と感性を受け継ぎながら、耐熱性の強い粘土を生かした作品で広く好評を博しています。