越中福岡の菅笠

越中福岡の菅笠の歴史~100年以上変わらぬ伝統技法~

越中福岡の菅笠の歴史を年代別にかんたんに紹介

奈良時代:万葉集に菅笠が出てくることから、その歴史が始まります。
平安時代:延喜式に和紙が納税品として記され、越中和紙が重宝されることが示されています。
室町時代:福岡町の菅笠造りの歴史が始まり、小矢部川の氾濫でスゲが自生し、菅笠生産が始まる。
江戸時代:加賀藩の奨励を受けてスゲ栽培と菅笠の生産が本格化します。
江戸中期:加賀前田家5代当主前田綱紀の保護と奨励を受けて菅笠の産業化が進みます。
元治元年(1864年):210万枚の笠の出荷記録があります。
昭和30年代:年間100万枚を上回る出荷数を記録するものの、その後減少します。
昭和時代:海外輸出が盛んになり、200万蓋を超える生産高を記録します。
平成後半:菅笠の需要が激減し、越中福岡がほぼ唯一の産地となります。
現在:新商品開発や色染めしたスゲ模様の採用など、伝統技術の継承に挑戦しています。

越中福岡の菅笠の歴史(詳細)

越中福岡の菅笠の歴史は、その起源を奈良時代に遡る「万葉集」に記された菅笠までたどることができ、平安時代の「延喜式」にも納税品として記されるなど、日本における菅笠製造の長い伝統があります。富山県高岡市福岡町での菅笠生産は、小矢部川の氾濫による沼地がスゲの自生に適していたことから始まりました。江戸時代に入ると、加賀藩の奨励を受けてスゲ栽培と菅笠の生産が本格化し、「加賀笠」として全国に出荷されるようになりました。特に江戸中期から加賀前田家5代当主前田綱紀の時代に産業化が進み、幕末には出荷枚数が210万枚に達するなど、最盛期を迎えました。

昭和30年代までは年間100万枚を超える出荷数がありましたが、その後著しく減少しています。しかし、地元で栽培された良質なスゲ草を使用した高い生産技術は現在も受け継がれており、全国の菅笠産地の中で9割のシェアを誇っています。昭和時代には海外輸出も盛んになり、200万蓋を超える生産高を記録しましたが、戦後の農政改革や生活様式の変化により、専業農家の減少とともに農業用菅笠の需要も激減しました。平成の後半には越中福岡がほぼ唯一の産地となり、新たな需要を開拓するための新商品開発や色染めしたスゲ模様の採用など、伝統の技術継承に挑戦しています。

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