庄川挽物木地

庄川挽物木地の歴史~素朴で温もりある自然の木目~

庄川挽物木地の歴史を年代別にかんたんに紹介

天正年間:藩政期から流木事業が行われ、加賀藩の用材調達のため飛騨御用木が庄川を利用して流され始める。
室町時代:庄川町地域で菅笠生産が始まり、スゲが自生する沼地を活かした流木事業が行われる。
江戸時代:加賀藩の奨励を受けてスゲ栽培と菅笠の生産が本格化し、木工業が栄える。
慶応2年(1866年):越後屋清次が庄川地域でロクロ木地を営む。庄川挽物木地の始まり。
元治元年(1864年):庄川地域で210万枚の笠の出荷記録がある。
明治時代:大量の木材が青島貯木場に集約され、木工業が一大集積地となる。庄川の地の利を生かして下木地生産地が形成される。
昭和30年代:木材出荷数が年間100万枚を上回るが、その後減少。
昭和時代:海外輸出が盛んになり、200万蓋を超える生産高を記録。
平成後半:原木からの木取りや仕上げまでの一貫した手作業が見直される。
現在:伝統技術の継承と新たな挑戦が続けられている。

庄川挽物木地の歴史(詳細)

庄川挽物木地の歴史は、一級河川である庄川の利用が始まりであり、この地域が木材集産地としての栄える基盤となりました。加賀藩の用材調達のため、天正年間から飛騨御用木が庄川を利用して流され、庄川地域の貯木場に蓄えられました。特に藩政期から明治時代にかけて、大量の木材が青島貯木場に集約され、面積12,000㎡におよぶ北陸随一の木材集産地が形成されました。こうして、周囲には製材所や木工所が建ち並び、木工業が栄えることとなりました。

庄川挽物木地は、1866年(慶応2年)に越後屋清次が豊富な木材を求めてこの地に移り住み、ろくろ木地屋を営んだことに始まります。清次は極上の椀、盃、盆などを作り、金沢へ販売しました。やがて近隣の人々が弟子入りし、挽物技術が広がりました。中でも挽物は生産高において日本一を誇り、明治時代には輪島や高岡等の漆器産地の一大下木地生産地としても機能しました。

戦後、プラスチック製品などに押される時期もありましたが、原木からの木取りや仕上げまでの一貫した手作業によって作り出される製品の味わいが見直されています。今日、庄川挽物木地はその伝統技術を継承しながら、新たな挑戦を続けている産地として知られています。

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