越前焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
奈良時代:越前町で須恵器の生産が本格的に始まる。
平安時代末期(約850年前):現在の福井県越前町小曽原で越前焼の生産が開始される。常滑の技術を導入し、焼き締め陶器の製造が始まる。
室町時代後期:越前焼が北陸地方最大、日本海側最大の窯場へと発展し、最盛期を迎える。
江戸時代中期:生産地が平等村に移動。食器類の生産が始まる。
明治時代:水道の普及と磁器製品の広がりにより、越前焼の需要が落ち込み、衰退期を迎える。
1940年代:「越前焼」という名称が学術用語として提唱され、普及し始める。
大正7年(1918年):上田三平が越前焼に関する考古学的な調査を開始。
昭和17年(1942年):小山富士夫が「越前焼」という汎称を与える。
昭和23年(1948年):「日本六古窯」の一つとして越前焼が全国に知られるようになる。
1986年(昭和61年):越前焼が国から伝統工芸品として指定を受ける。
1970年代~1980年代:水野九右衛門による越前焼の調査・研究が本格化し、『時代別 古越前名品図録』などの著作が発表される。
平成9年(1997年):水野九右衛門の収集した越前焼などの資料が福井県陶芸館へ寄贈される。
越前焼の歴史(詳細)
越前焼の歴史は、約1300年前、奈良時代に須恵器の生産が始まり、平安時代末期には現在の福井県越前町での陶器生産が開始されたことに遡ります。この地域は、約850年前から越前焼の産地として知られ、200基以上の窯跡が発見されています。初期の越前焼は、常滑の技術を導入し、壺や甕、すり鉢などの生産に特化していました。室町時代後期には北陸地方最大、日本海側最大の窯場へと発展し、最盛期を迎えました。江戸時代中期に窯は平等村へ移り、食器類の生産も始まりました。しかし、明治時代に入ると、水道の普及や磁器製品の広がりにより需要が落ち込み、衰退期を迎えました。
戦後、越前焼は日本六古窯の一つとして再び注目され、越前陶芸村の建設を機に多くの陶芸家が集まり、新しい作陶が試みられています。織田焼や熊谷焼として知られていた地域の陶器に「越前焼」という名称が与えられたのは1940年代以降であり、この名前は学術用語として提唱されました。考古学的な観点から越前焼が研究され始めたのは大正7年(1918年)で、上田三平による調査が契機となりました。その後、水野九右衛門や小山富士夫らによる調査・研究が進められ、越前焼の生産活動は現在まで続いています。
越前焼の復興には、水野九右衛門の貢献が大きく、彼の収集した越前焼は水野古陶磁館に収蔵され、後に福井県陶芸館へ寄贈されました。また、越前焼の研究は、古越前を中心に展開され、平安時代末期から江戸時代にかけての生産の展開と変遷が明らかにされています。現代では、越前焼は伝統技術を生かした種々の新しい作陶が試みられ、福井県内で活動する作家や窯元によって新しい歴史が作られています。