大谷焼

大谷焼の歴史~僅かな光沢とザラついた質感~

大谷焼の歴史を年代別にかんたんに紹介

1780年(安永9年):四国八十八カ所霊場の巡礼に来た豊後の国(大分県)の焼き物細工師・文右衛門が大谷村において蟹ヶ谷の赤土で作ったのが大谷焼の起源。
1781年(天明元年):阿波の国(徳島県)で蜂須賀治昭公により藩営の窯が築かれ、阿波で初めて染付磁器が焼かれ始める。
1784年(天明4年):藩窯が廃止された後、賀屋文五郎(笠井惣左衛門)が信楽焼の職人忠蔵を連れ帰り、大谷村に民窯として「連房式登窯」を築き、現在の大谷焼の始まりとなる。
2003年(平成15年)9月:大谷焼が国の伝統的工芸品に指定される。

大谷焼の歴史(詳細)

大谷焼は、江戸時代後期の安永9年(1780年)に始まります。この時期に、四国八十八カ所霊場の巡礼に来た豊後の国(現在の大分県)の焼き物細工師、文右衛門が大谷村を訪れ、蟹ヶ谷の赤土を使って初めて作品を焼き上げたことが大谷焼の起源と伝えられています。また、文右衛門はこの地で初めてロクロ細工を披露しました。

阿波の国(現在の徳島県)では当時、焼き物が珍しく、その技術に興味を持った時の蜂須賀治昭公は、九州から職人を招き、天明元年(1781年)に大谷村に藩営の窯を築き、阿波で初めての染付磁器を焼き始めました。しかし、高額な原材料の調達などの理由で採算が取れず、藩窯はわずか3年で廃止されました。

その後、藩窯の設立に尽力した藍商人の賀屋文五郎(笠井惣左衛門)が、旅先で出会った信楽焼の職人忠蔵を連れ帰り、弟の平次兵衛に陶器製造技法を伝授しました。天明4年には、大谷村(現在の鳴門市大麻町)に民窯として「連房式登窯」を築き、地元の萩原と姫田から調達した陶土と釉薬で、水甕や藍甕などの大物陶器の生産を始めたことが、現在の大谷焼の始まりとされています。

大谷焼は、身の丈ほどもある大甕などの大物陶器の製造で知られ、特に「寝ロクロ」と呼ばれる技法が有名です。これは、助手が作業台の下に寝ころび足で蹴ってロクロを回す方法で、大物陶器を作る際に用いられます。また、これらの陶器を焼き上げる登り窯は、日本一の大きさと言われています。

平成15年(2003年)9月には、大谷焼が国の伝統的工芸品に指定されました。最盛期には数十軒の窯元が点在していましたが、現在作陶を続けているのは7軒のみとなっています。これらの歴史的背景と技術の進化が、大谷焼を現代に伝える重要な要素となっています。

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