薩摩焼

薩摩焼の歴史~千差万別な進化を経て残った豊富な種類~

薩摩焼の歴史を年代別にかんたんに紹介

1592年(文禄元年) - 豊臣秀吉が朝鮮に大兵を送り込む。この出兵が薩摩焼の始まりとなる陶工の日本への渡来につながる。
1598年(慶長3年) - 島津義弘が朝鮮出兵から帰国し、朝鮮人陶工を連れ帰る。串木野市島平に上陸し、薩摩焼の基礎を築く。
1599年(慶長4年) - 朴平意が串木野窯を開き、その後苗代川に移住し、黒薩摩や白薩摩の生産を開始。
1601年(慶長6年) - 金海(星山仲次)が帖佐(ちょうさ)の宇都に藩窯として竪野系の窯を開窯。
1608年(慶長13年)頃 - 芳仲(ほうちゅう)が加治木龍口坂に窯を開き、後に山本碗右衛門が龍門司系の窯を築窯。
1776年 - 平佐焼が今井儀右衛門により始まり、後に伊地知団右衛門が平佐に窯を開かせた。
1782年 - 苗代川系で白薩摩(白もん)の捻物細工を開始。
1844年 - 白薩摩が錦手、金襴手へと発展。
1873年 - 薩摩焼がウィーン万国博覧会に出品し、進歩賞を受賞。西欧で「SATUMA」の名で広く知れ渡る。
1899年(明治32年) - 竪野系の絵師・有山長太郎が鹿児島市南部の谷山地区に黒もんの長太郎窯を再興。

薩摩焼の歴史(詳細)

薩摩焼の歴史は、1592年の文禄元年、豊臣秀吉による朝鮮出兵とその後の帰国軍による朝鮮陶工の連れ帰りに始まります。この時期、日本は茶道が流行しており、茶器への関心が高まっていました。朝鮮半島では、李朝時代にすでに高度な陶器文化が存在しており、その技術者たちが日本へと渡来することになりました。文禄・慶長の役が終わると、九州各藩および長州の大名は競って陶工を連れ帰り、各地で窯を築かせました。これにより、薩摩焼をはじめとする萩焼、有田焼などの諸窯が発生し、「焼物戦争」とも呼ばれるようになりました。

薩摩藩17代藩主島津義弘は、80人以上の朝鮮人陶工を連れ帰り、特に1598年(慶長3年)には串木野市島平に上陸した陶工たちが薩摩焼の基礎を築きました。これらの陶工は藩内各地に窯を開き、立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類の焼き物が生まれ、薩摩焼は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼の5系統に分類されます。現在残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。

薩摩焼は、その特徴から白薩摩(白もん)と黒薩摩(黒もん)の2種類に大別されます。白薩摩は白陶土で成形し透明釉を掛けたもので、細かい貫入が特徴です。これに対し、黒薩摩は鉄分を多く含む土を使用し、高温で焼き締められた素朴で頑丈な仕上がりが特徴です。美山薩摩焼は約400年前にさかのぼり、島津義弘によって朝鮮出兵時に引き連れられた陶工によって始まったとされ、美山には初めての登り窯とされる元屋敷窯やその他の窯跡が残っています。また、調所笑左右衛門や朴平意など歴史上重要な人物の記念碑も建てられています。

薩摩焼は鹿児島の豊かな風土と陶工たちの努力によって独自の発展を遂げ、現在では多様な技法を凝らした作品を生み出し続けています。この長い歴史と伝統は、現代においても薩摩焼の価値を高め、多くの人々に愛され続ける理由の一つです。

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