喜如嘉の芭蕉布の歴史を年代別にかんたんに紹介
13世紀頃 - 芭蕉布の製造が始まるとされる。
鎌倉時代頃 - 喜如嘉で芭蕉布の存在が確認される。
1609年 - 薩摩藩の侵攻後、芭蕉布が人頭税として日本国への貢物とされる。
1893年(明治26年) - 弘前藩出身の役人・笹森儀助が「南島探検」を著し、芭蕉布について言及。
1895年(明治28年) - 喜如嘉の女性が芭蕉布に絣模様を取り入れる。
1905年(明治38年) - 高機が導入され、技術革新が進む。
1907年(明治40年) - 根路銘で芭蕉布品評会が開かれ、副業としての生産が奨励される。
1939年(昭和14年) - 東京三越で特産品即売会に喜如嘉の芭蕉布が出品される。
1945年(昭和20年) - 第二次世界大戦後、芭蕉布の生産が再開される。
1972年(昭和47年) - 芭蕉布が国の重要無形文化財に指定され、喜如嘉芭蕉布事業協同組合の設立に繋がる。
喜如嘉の芭蕉布の歴史(詳細)
喜如嘉の芭蕉布の歴史は古く、一説には13世紀から沖縄で作られ始めたとされ、琉球王朝時代には王族や貴族が上質の芭蕉布を身に付けるために、王府内に「芭蕉当職」という役職を設けて王府専用の芭蕉園を管理していました。また、喜如嘉では鎌倉時代の頃、日本が琉球王朝が誕生する前に既に存在していたとも考えられています。その糸芭蕉から採り出した糸を女性たちが紡ぎ、家族の衣服や売り物として織り上げていました。1895年には喜如嘉の女性が無地や縞模様が主流だった芭蕉布に絣模様を取り入れ、工芸品としての発展が始まりました。芭蕉布は高温多湿な亜熱帯気候の沖縄において、必要不可欠なものであり、琉球王朝誕生後は、絣織の芭蕉布は王族や士族の着物に使われ、無地や縞芭蕉は庶民の普段着として使われていました。
1609年に薩摩藩が侵攻して以降、芭蕉布は人頭税として、日本国への貢物としても重宝されるようになります。1800年代に入り綿花栽培が一般化すると、保湿性の高い綿素材の服と風通しが良い芭蕉布の衣服が季節ごとに使い分けられるようになりました。しかし、第二次世界大戦時の沖縄戦で、原料となる糸芭蕉の畑は焼かれ、芭蕉布の生産量は大きく落ち込んでしまいます。その危機を救ったのが、後に人間国宝となる平良敏子さんで、戦後に途絶える寸前だった喜如嘉の芭蕉布を再興させるために努力しました。平良さんの取り組みは成功し、1972年に芭蕉布は国の重要無形文化財に指定され、喜如嘉芭蕉布事業協同組合の設立へと繋がりました。喜如嘉の芭蕉布は今や、沖縄を代表する織物として、世界中から注目される工芸品となっています。