駿河雛人形の歴史を年代別にかんたんに紹介
室町時代:駿河地方で「ひいなはりこ」を若い婦人へ贈る風習が根付く。
平安末期:菅原道真が「学問・雷電・農耕の神」として信仰され、全国各地で天神人形が作られるようになる。
江戸時代初期:徳川秀忠の久能山東照宮と家光の浅間神社造営により、全国から集められた職人が駿府に留まり、木漆工芸品を作る。
嘉永6年(1853年):現存する最古の衣装着雛天神が作られる。
昭和6年(1931年)頃:静岡市で本格的に雛人形の生産が始まる。
平成6年(1994年):駿河雛人形が伝統的工芸品として認定される。
駿河雛人形の歴史(詳細)
駿河雛人形の歴史は、室町時代までさかのぼります。当時の駿河地方では、公家の風習に基づき、若い婦人に「ひいなはりこ」を贈る習慣があり、これが雛人形の起源とされています。駿河雛人形のルーツは、菅原道真を模した「天神さん」にその発祥を見ることができます。平安末期から道真は「学問・雷電・農耕の神」として信仰され、全国各地で天神人形が作られるようになりました。
江戸時代初期、静岡浅間神社造営の際に全国から集められた優秀な職人たちは、静岡に留まり、木地指物、挽物、漆、蒔絵などの技術を活用して木漆工芸品を作り始めました。その後、衣装を着せた天神(衣装着雛天神)の制作が始まり、現存する最古のものは嘉永6年(1853年)のものがあります。
静岡市では、昭和6年(1931年)頃から本格的に雛人形の生産が始まり、技術は他地域から招いた人形師によって導入されました。また、青野嘉作氏が始めた桐塑による煉り天神(土天神)や内裏雛、風俗人形の制作が駿河雛人形のルーツになっています。青野氏の弟子である大須賀芳蔵氏は、衣装着天神の原型を生み出しましたが、江戸末期には既にこの地方で衣装着天神が作られていたと考えられます。
これらの天神人形は、当初は男の子のお雛様として飾られ、後に女の子用の内裏雛が加わりました。衣装着天神の特徴として、初期の衣装は朱子地のような布地で、後ろ半分が赤紙や白紙で作られていました。
平成6年(1994年)には、駿河雛人形が伝統的工芸品として認定され、現在では、伝統を守りつつ、小型のものも製作し、後世に伝える努力が続けられています。駿河雛人形は、その長い歴史と特徴的な美しさで知られ、重要な文化遺産として評価されています。