越中和紙の歴史を年代別にかんたんに紹介
奈良時代:「正倉院文書」に越中国紙が記される。
平安時代:「延喜式」に和紙が納税品として記録される。
江戸時代1688年~1704年:八尾和紙の生産が盛んになる。
江戸後期1865年:富山市内の紙商が「新出紙御値段仕法之控」を出し、染紙の名が記される。
1500年代後半:五箇山和紙が加賀藩の初代藩主前田利家へ献上される。
約400年前:蛭谷紙が滋賀県東近江市の蛭谷から移住した人々によって伝えられる。
約300年前:蛭谷和紙が地域の主要産物として記録される。
昭和初期:蛭谷で和紙生産に携わる家が約120軒に上る。
1953年:蛭谷で大火が発生し、和紙生産の後継者が激減する。
1984年:八尾和紙、五箇山和紙、蛭谷紙が「越中和紙」として国の伝統的工芸品に指定される。
越中和紙の歴史(詳細)
越中和紙の歴史は奈良時代まで遡り、「正倉院文書」にその名が見られるほど古い起源を持っています。平安時代の「延喜式」には納税品としての記録があり、古くから重宝されていたことが分かります。越中和紙は、八尾和紙、五箇山和紙、蛭谷和紙の三つの地域和紙を総称し、それぞれが独自の歴史と発展を遂げてきました。
八尾和紙は江戸時代に薬袋紙として特に栄え、「富山の売薬」の販路拡大に貢献しました。この時代、富山藩2代藩主の前田正甫によって売薬が奨励され、八尾和紙は記録紙や障子紙から薬包紙や顧客名簿である懸場帳、薬売りが持つかばんの素材へと用途が変化しました。高い耐久性が求められたことで、独自の技術が急速に発展しました。
五箇山和紙は1500年代後半から加賀藩の初代藩主前田利家へ献上されており、藩札や御料紙、献上紙として使用されていました。加賀藩の保護のもとで良質な和紙を作る技術が育ちました。
蛭谷和紙は約400年前に滋賀県から移住した人々によって伝えられた技術で、昭和初期には地域のほとんどの家が和紙生産に携わり、その数は約120軒にも上りましたが、1953年の大火により後継者が激減し、現在は幻の和紙とも称されます。
明治時代になると和紙の製造は全国的に衰え、原因は生活様式の変化や機械で大量生産される洋紙の普及でした。それでも、越中和紙に携わる人々は伝統の継承や新たな製品の開発、後継者の育成を続けてきました。
1984年には、八尾和紙、五箇山和紙、蛭谷紙がその伝統と技術が評価され、「越中和紙」として国の伝統的工芸品に指定されました。現在でも、生活用品から芸術品まで幅広く使用され、人々の生活に深く根ざしています。