大阪仏壇の歴史を年代別にかんたんに紹介
552年 大陸百済より、経文と共に6人の仏工(仏師)、造寺工(大工・細工師)が難波津(現大阪)に遣わされ、大阪漆塗り金仏壇の起源となる。
593年 聖徳太子による四天王寺建立。百済からの技術者が上町台地に住まわされ、大阪の仏壇仏具の産地形成が始まる。
685年(天武天皇十四年) 「日本書紀」によると、家ごとに仏壇を安置し、仏をまつり礼拝することが詔で定められる。
江戸時代 大阪仏壇の本格的な発展。浄土真宗の拠点として、仏壇の生産が拡大し、大阪は産地としての体裁を整える。
1800年代 錺金具の打ち出し技法や漆塗り技法が開発され、大阪仏壇に特有の装飾技法が確立される。
江戸初期以降 唐木仏壇の生産が始まり、檜などの木材を使用した簡単な戸棚仏壇が作られるようになる。
江戸中期以降 紫檀、黒檀、花梨材などの唐木を用いた仏壇が製作され、大阪産地独自の唐木仏壇として発展。
大阪仏壇の歴史(詳細)
大阪仏壇の歴史は、日本で最も古い仏壇産地とされています。この歴史は552年、日本に仏教が伝来した時に始まります。当時、百済の威徳王から海上の要所であった難波津(現在の大阪市中央区三寺町)へ経文と共に6人の仏工(仏師)、造寺工(大工・細目師)が遣わされた記録が日本書紀に残っています。593年には聖徳太子が四天王寺を建立する際に百済から4人の技術者を上町台地に住まわせ、これらの技術者が中心となって大阪産地の仏壇・仏具生産が形成されました。
大阪仏壇が本格的に発展したのは江戸時代になってからで、大阪は浄土真宗の拠点であり、檀家制度や宗旨人別制度の施行により仏壇を設ける習慣が普及しました。1800年代には、錺長や錺平などの打ち出し技法、光押しや重押し、粉留などの箔押し技法、呂色塗りの漆塗り技法が開発され、繧繝彩色という優雅さを表現する技法や、金具の錆による損傷を防ぐための高蒔絵の技法も開発されました。
また、江戸初期以降は唐木仏壇の生産も行われるようになり、杉や松・檜等で簡単な戸棚仏壇を作るようになりました。江戸中期以降は紫檀、黒檀、花梨材などの「からの木(唐木)」を用いた仏壇が作られるようになり、漆塗仏壇のデザインや技法を取り入れて大阪産地独自の唐木仏壇が発展しました。
天武天皇の時代には、家ごとに仏壇を安置し、仏をまつり礼拝せよとの詔が出され、これが家庭に仏壇を設ける習慣のルーツとされています。敏達天皇の時代には、百済から経論千巻とともに仏教の技術者が遣わされ、難波の大別王の寺に安置されました。これらの技術者が仏像や仏壇の製造に関わり、大阪が仏壇製造の地としての地位を確立したことを示しています。四天王寺の建立とその後の技術者による仏像、仏壇作りの流れは、大阪の仏壇産業の発展に大きく寄与しました。
以上の歴史的経緯から、大阪仏壇は古くから日本の仏壇製造の中心地としてその技術や伝統を築き上げ、多様な技法やデザインの発展を遂げてきました。その優れた技術と伝統は、今もなお後世に受け継がれています。