土佐和紙の歴史を年代別にかんたんに紹介
平安時代(延喜5年、927年) - 「延喜式」に土佐和紙が国に納められた主要産地国として記載。紀貫之が国司として土佐に赴任し、製紙業を奨励。
鎌倉時代後期(1200年頃) - 「杉原紙」が吾川郡大野郷(伊野町)や中村郷(春野町)から差し出された記録が残る。
慶長初期(1600年ごろ) - 伊予国宇和郡日向谷村の新之丞が成山村に来て、上質紙を漉く技術を教える伝説。
戦国時代 - いの町成山で「土佐七色紙」が開発され、土佐藩から将軍家への献上品として保護される。
江戸時代後期 - いの町出身の吉井源太が大型簀桁を考案し、「紙業王国土佐」の礎を築く。
明治時代中期 - 土佐和紙が全国一の生産規模を誇る。
現代 - 土佐和紙は種類の豊富さと品質の良さで知られ、全国でも和紙作りの盛んな県としてその伝統が守り継がれている。
土佐和紙の歴史(詳細)
土佐和紙の歴史は約1000年前、平安時代にさかのぼります。この時期に編纂された「延喜式」に献上品として土佐和紙の名が出ており、それが現存する最古の記録とされています。国司として土佐に赴任した紀貫之も製紙業を奨励したことが伝えられています。仁淀川をはじめとする豊かな清流のもと、楮や三椏などの原料の生産や抄紙技術が発展し、土佐和紙は土佐の主要な特産品としてその歴史を刻んできました。戦国時代には、いの町成山で草木染めの技術を加えた「土佐七色紙」が開発され、土佐藩から将軍家への献上品として保護され、土佐和紙の名が広く知られるようになりました。明治時代中期には全国一の生産規模を誇り、その種類の豊富さと品質の良さは有名です。江戸時代後期には、いの町出身の吉井源太が大型簀桁を考案するなど、紙業発展に力を注ぎ、「紙業王国土佐」の礎を築きました。今なお、全国でも和紙作りの盛んな県として、その伝統が守り継がれています。