津軽塗

津軽塗の歴史~優美な漆器とその成り立ち~

津軽塗の歴史を年代別にかんたんに紹介

- 元禄年間 (1600年代末~1700年代初頭):津軽塗の起源。津軽藩四代藩主信政の時代、塗師池田源兵衛が津軽塗の創始者として活動を開始。

- 延宝4年 (1676年):弘前城内に塗師の作業場が設けられる。池田源兵衛の息子、源太郎が蒔絵の技術を学び、青海一門の「青海波塗」を学ぶ。

- 江戸時代末期:津軽塗は武家の刀の鞘や調度品に使用。特に「唐塗」の技法が成立。しかし、時代の変遷とともに衰退の兆しを見せる。

- 明治初頭:津軽塗が産業として形を整える。藩政下で積み重ねられた伝統技術を土台に産業化の糸口が開かれる。

- 明治4年 (1871年):廃藩置県後、津軽塗産業が困難な状況に。県の助成や各種組織の結成により再興の動き。

- 明治6年 (1873年):ウィーン万国博覧会で津軽塗が出展・受賞。津軽塗の名が一般に広まる。

- 昭和50年 (1975年):津軽塗が経済産業大臣指定伝統工芸品として認定。

津軽塗の歴史(詳細)

津軽塗はおよそ300年前の津軽藩四代藩主信政の時代に津軽藩召し抱えの塗師池田源兵衛によって始められたと伝えられています。その起源は江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政公(1646~1710年)の治世にさかのぼります。この時代、政情が安定し、各藩の商工業が発展しました。寛永19年(1642年)に成立した参勤交代の制度と街道整備により、上方(京都・大阪)や江戸の文物が各地に伝播し、各藩が地域の産業を保護奨励するようになりました。信政公は多くの職人・技術者を弘前に招き、延宝4年(1676年)頃には弘前城内に塗師の作業場が設けられていたことが知られています。中でも若狭国(現在の福井県)からの塗師、池田源兵衛が特筆されます。源兵衛の息子、源太郎は蒔絵師山野井の門で修業をし、その後青海太郎左衛門に入門し、青海一門の「青海波塗」を学びました。彼は師の死後、帰藩して青海源兵衛と名乗り、独自の技術を持って津軽の地で新たな漆器を生み出していったのです。

初め、津軽塗は武家の刀の鞘の彩りや調度品に使用されました。特に「唐塗」の技法はこの時期に成立しており、弘前藩が幕府や他藩、朝廷や公家への贈答品として用いていたことからも、津軽塗の名声が窺えます。しかし、江戸時代末期には騒然とした世情が漆器産業に影響を与え、衰退の兆しを見せました。明治4年(1871年)の廃藩置県後、津軽塗産業は困難な状況に直面しましたが、県の助成や士族や商人による製造所や組合の結成により、息を吹き返しました。特に明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会での「津軽塗」の出展と受賞により、その名が一般的になりました。しかしその後、世界恐慌や第二次大戦の影響で再び衰退しました。戦後は関連組織や団体の改革、展示会や展覧会への出品、技術指導などにより、津軽塗産業は再び活況を呈しました。昭和50年(1975年)に制定された伝統的工芸品産業振興法により、津軽塗は経済産業大臣指定伝統工芸品として認定され、さらなる発展の道筋を辿っています。

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