燕鎚起銅器

燕鎚起銅器の歴史~変幻自在の造形美~

燕鎚起銅器の歴史を年代別にかんたんに紹介

1628年頃: 和釘作りの副業が燕市で導入される。
1650年頃: 燕市で銅細工の製作が始まる。
1864年: 「越後産物番付」で燕銅器が25位に挙げられる。
江戸時代中期: 仙台から鎚起技術が伝わり、やかん類の生産が始まる。
1816年: 玉川覚兵衛が鎚起銅器製作に移行し、玉川堂の初代が確立。
1873年: ウィーン万博博覧会に日本の金工作品が出展される。
1894年: 玉川堂の銅器が皇室献上される。
1958年: 玉川堂の技術が新潟県無形文化財に指定される。
1981年: 「燕鎚起銅器」が伝統的工芸品に指定される。
2010年: 玉川宣夫が人間国宝に認定される。
2013年: 燕市・三条市で「燕三条 工場の祭典」が始まる。 ​​

燕鎚起銅器の歴史(詳細)

燕市は古くから越後平野の中心に位置し、穀倉地帯として知られています。江戸時代初期(1628年ごろ推定)には、度重なる水害に苦しむ農民の副業として和釘作りが導入され、江戸での震災や大火の影響で釘の需要が増えました。この和釘産業は徳川期から明治初期にかけて燕産業の80%を占めました。

1650年ごろ、村上藩の命により、燕では銅細工の製作が始まり、鍋などの銅器の生産が盛んになりました。幕末の元治元年(1864年)には「越後産物番付」で燕銅器が25位に挙げられています。和釘の需要は明治維新とともに洋釘に奪われ、衰退しましたが、燕市の西北に位置する霊山・弥彦山で開発された間瀬銅山から採れる良質な銅が、「燕鎚起銅器」誕生の契機となりました。

仙台からの技術者によって伝えられた「燕鎚起銅器」の技術は、銅板を鎚で叩いて継ぎ目なく作る技術であり、1816年には玉川覚兵衛によって家業が鎚起銅器製作へと移行されました。これは玉川堂の初代であり、現代まで続く燕の鎚起銅器作りの礎を築きました。

明治時代に入ると、廃刀令などにより多くの工芸職人が失職し、高度な工芸技術が生活用具作りに活用されました。明治政府の「殖産興業」「輸出貿易振興」政策のもと、日本の金工作品が国際展示会に出展され、高い評価を受けました。玉川堂では、日用品から美術工芸品へのシフトが進み、3代目玉川覚平の時代には彫金技術を取り入れ、1894年には皇室献上の栄誉を受けました。

戦争による銅の供出や価格高騰により、燕の銅器生産は壊滅的なダメージを受けましたが、1958年に玉川堂の技術が「新潟県無形文化財」に指定され、経営も回復しました。1981年には「燕鎚起銅器」が伝統的工芸品として指定されました。

高度成長期からバブル期には、燕の銅器が贈答品需要に恵まれ、玉川堂ではその売り上げが全体の8割を占めました。バブル崩壊後、海外進出が進み、2010年には玉川宣夫が人間国宝に認定されました。燕鎚起銅器の技術は継承者の減少とともに困難を伴いますが、玉川堂は工場見学やワークショップを開催し、技術を次代に繋げる努力を続けています。また、燕市・三条市では「燕三条 工場の祭典」という工場見学イベントが開催され、燕鎚起銅器を含む多種多様な工芸品が紹介されています。

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