内山紙の歴史を年代別にかんたんに紹介
1661年: 内山紙の起源。信濃国高井郡内山村の萩原喜右ヱ門が美濃国で製法を習得し、帰郷後に自家で紙漉きを開始。
1706年: 宝永3年の「信濃国高井郡水内郡郷村高帳」に紙漉きが徴税対象であることが記載される。
明治時代: 製造方法の改良。製造工程での動力導入などが行われる。
1909年: 明治42年に長野製紙同業組合が設立される(製造1130戸、販売175戸、原料供給1354戸)。
1949年: 昭和24年に長野製紙同業組合が解散。
昭和後期: 北信内山紙工業協同組合が設立され、350年余りの伝統を継続。
内山紙の歴史(詳細)
内山紙の歴史は江戸時代の寛文元年(1661年)に始まり、信濃国高井郡内山村(現在の長野県下高井郡木島平村内山)の萩原喜右ヱ門が美濃国で製法を習得して帰郷し、自家で漉いたことに起源を持つと伝えられています。また、狩りをしながら移動生活を送るマタギたちが楮を用いて紙を漉き、飯山市大字瑞穂小菅の内山地積にあった小菅山修験場に紙を納めていたという別の説もありますが、確かな資料が乏しく、起源については明確ではありません。内山紙という名前は地名から名付けられたとされます。
江戸時代、楮は自生しており容易に入手可能であったため、奥信濃一帯で紙漉きが広く行われていました。宝永3年(1706年)の「信濃国高井郡水内郡郷村高帳」に記載された「紙漉運上銀二十五匁七分一原」という文言から、江戸中期には紙製造が徴税対象の産業であったことがわかります。紙の製造が普及した背景には、豪雪地帯である奥信濃一帯の農家にとって、冬季の副業として適していたこと、強靭な障子紙の需要が高く現金収入につながったこと、そして雪が楮の処理に役立ったことがあります。
明治時代に入ると、製造方法に改良が加えられ、動力を導入するなどの工程が行われました。明治42年には製造1130戸、販売175戸、原料供給1354戸で長野製紙同業組合が設立されたものの、洋紙の普及や手漉き製造の労力の多さが原因で生産効率が悪く、昭和24年に同組合は解散しました。しかし、伝統を守りたい生産者たちは北信内山紙工業協同組合を設立し、350年余りにわたる伝統を今に伝えています。