飛騨春慶

飛騨春慶の歴史~木目の美しさを最大限に発揮する透漆技法~

飛騨春慶の歴史を年代別にかんたんに紹介

1607年(慶長12年): 高橋喜左衛門が蛤の形のお盆を作り、重近に献上。成田三右衛門によって塗装され、春慶塗と命名される。
江戸時代: 茶器としての利用が主となり、盆や重箱などの生活用品も作られ、庶民に普及。
第二次世界大戦中: 一時的に衰退するが、戦後に産地として復活。
高度経済成長期: 贈答品としての需要が増加し、観光ブームによりお土産品としても需要が拡大。
1961年: 連合協同組合が設立される。
1975年: 通産大臣(現経済産業省)から伝統的工芸品として第一次指定を受ける。 ​​

飛騨春慶の歴史(詳細)

飛騨春慶の歴史は、慶長年間(1596~1615年)の江戸時代初期に始まります。この時代、高山城主であった金森可重のもと、大工の棟梁であった高橋喜左衛門がサワラの割目の美しさに心打たれ、盆を作りました。これを金森可重の子、重近(宗和)に献上し、御用塗師成田三右衛門が透漆で塗り上げました。この漆の色が陶工加藤四郎左衛門景正の名陶「飛春慶」の茶壺の黄釉に似ていたことから、「春慶塗」と命名されました。

金森家は代々茶道に造詣が深く、重近は後に宗和と号し、京都で茶道「宗和流」の祖となりました。飛騨春慶塗の茶道具は茶人に贈られたり、将軍に献上されるなどして名声を高め、貴族工芸品としてもてはやされました。江戸時代中期に飛騨が天領となると、歴代の郡代が地場産業としての発展に力を入れ、飛騨以外にも広まりました。幕末には問屋も出現し、明治、大正時代には春慶塗が大衆化しました。特に明治時代には、問屋が中心となって飛騨春慶の振興を図り、アメリカセントルイスの万国博覧会に出品し銀賞を受賞するなど、数多くの博覧会で入賞し、知名度を高めました。

現在、飛騨春慶は、家具や食卓の器としても注目され、木のぬくもりと風合いを生活の中に取り入れることができる伝統的工芸品として、多くの愛好家に親しまれています。時間が経つにつれて漆が透け、木目が美しく浮き出てくるのが特徴です。昭和36年(1961年)には連合協同組合が設立され、昭和50年(1975年)には伝統的工芸品として第一次指定を受けました。

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