名古屋黒紋付染

名古屋黒紋付染の歴史~上質で艶やかな黒~

名古屋黒紋付染の歴史を年代別にかんたんに紹介

1610年:尾張藩士の小坂井家が旗や幟の製造を始める。
1611年:名古屋黒紋付染の原点となる旗や幟が尾張藩で作られ始める。
1830年:紋型紙板締め技法が黒紋付染師の文助によって考案される。
明治時代:紋型紙板締め技法が進化し、金網を使用する手法が生まれる。
現代:紋当金網付けが名古屋黒紋付染に用いられ、独特の手法として継承されている。 ​

名古屋黒紋付染の歴史(詳細)

名古屋黒紋付染の歴史は、江戸時代初期の1610年代に始まります。1611年には、尾張藩(おわりはん)で作られていた旗や幟(のぼり)が名古屋黒紋付染の原点となりました。この時代、尾張藩士の小坂井家が藩内の旗や幟などの製造にあたり、特に小坂井新左衛門が尾張藩のための呉服などを生産し、多様な染物を通じて人々の生活を支えました。この家は、徳川家康から紺屋頭(こんやがしら)として認められていました。

名古屋は、尾張徳川家の城下町として栄え、江戸と並ぶ大きな工芸都市へと発展しました。この発展の中で染物文化も成長し、需要が増加しました。多くの紺屋が競い合い、技法を磨き上げ、新しい技法も生まれました。1830年には、黒紋付染師の文助によって「紋型紙板締め(もんかたがみいたじめ)」という技法が考案され、高い人気を博しました。この技法は時代と共に進化し、明治時代には従来の板を金網にする手法が生まれました。

現在の名古屋黒紋付染には、この技法の流れを汲む「紋当金網付け(もんあてかなあみつけ)」が用いられています。これは名古屋独特の手法であり、紋を大切にする心が受け継がれています。また、紋章の歴史は平安時代に始まり、当初は限られた用途で使われていましたが、次第に武家の目印となり、江戸時代には庶民にも広まりました。現在でも、礼装用の衣服などに家紋として紋章が使われています。

-名古屋黒紋付染