播州三木打刃物

播州三木打刃物の歴史~現在まで受け継がれる伝統の刃~

播州三木打刃物の歴史を年代別にかんたんに紹介

古代 大和鍛冶の技術が確立。播磨国風土記に播州三木打刃物の記述が見られる。
西暦400年代 百済から渡来人が三木に移住し、韓鍛冶と大和鍛冶が融合。
安土桃山時代末期 三木城が羽柴秀吉に攻められ落城。その後の復興策で大工職人と鍛冶職人が集まり、大工道具の発展が進む。
天正8年(1580年) 三木城落城後、三木の町の復興で鍛冶職人が多く集まり、播州三木打刃物の発展が始まる。
江戸時代 三木の鍛冶の街としての名声が全国に広まり、「播州三木打刃物」が確立される。
明治時代 西洋技術の導入による一時的衰退を経験。
1996年 国の伝統的工芸品に指定され、職人たちが手作りの技を守り続けている。

播州三木打刃物の歴史(詳細)

播州三木打刃物の歴史は、古代の大和鍛冶にそのルーツを持ち、播磨国風土記に記述があるほど古くからその技術が確立していました。西暦400年代には百済から渡来した人々が韓鍛冶の技術をもたらし、大和鍛冶と融合することで三木は鍛冶の一大生産地としての地位を築きました。また、三木は鍛冶の神である天目一箇神のゆかりの地としても知られ、現在も鍛冶の神を祀る神社が各地に残っています。

安土桃山時代の末期には三木城が羽柴秀吉によって攻め落とされ、その後の町の復興策として秀吉が町民の諸税を免じたことから、大工職人が集まり、それに伴い鍛冶職人も多く集まったことで大工道具の発展につながりました。この時期には、神社、仏閣、家屋の再建が進められ、三木の鍛冶産業がさらに発展しました。江戸時代には三木城下で起きた合戦の後、秀吉による街の復興策が施され、大工職人とともに鍛冶職人が集まってきたことで、元々あった鍛冶産業がさらに発展しました。三木の鍛冶の技術は、京や大坂で使用された大工道具の評判を通じて全国に知られるようになり、鍛冶の街としての名声を確立しました。

江戸時代には、「播州三木打刃物」として確立され、江戸の街の家屋建築に広く使用されました。明治時代に西洋の技術の導入による一時的な衰退を経験しながらも、1996年に国の伝統的工芸品に指定され、現在に至るまで職人たちは手作りの技を守り続けています。天正8年(1580年)の三木城落城後の町の復興により、大工職人と共に鍛冶職人が集まったことから発展し、現在も鋸、鑿、鉋、鏝、小刀の製造においてその伝統的な技術が継承されています。

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