高山茶筌

高山茶筌の歴史~茶道の精神を現代へ伝える伝統工芸~

高山茶筌の歴史を年代別にかんたんに紹介

室町時代中期
- 宗砌が茶道の創始者、村田珠光の依頼によって最初の高山茶筌を作成。この技術は一子相伝で伝承される。

室町幕府8将軍足利義政の時代
- 高山で茶筌作りが始まる。室町時代中頃、高山城主の次男宗砌が村田珠光に依頼されて茶筌を作る。
- 村田珠光、称名寺の住職として連歌、和歌、書道に優れ、わび茶の創設者とされる。
- 村田珠光が京都へ移り、時の帝、後土御門天皇に宗砌が作った茶筌が献上され、高穂という名前がつけられる。

昭和時代
- 人不足により、一子相伝の制度が崩れ、高山茶筌の製法が一般に公開される。
- 高山茶筌の技術が国の伝統的工芸品に指定される。

明治時代末 - 大正時代
- 高山での編針製造が始まり、特に大正7.8年ごろから毛糸編針の出現により発展期を迎える。

戦後
- 女性の手芸手編みブームにより、編針の需要が急激に加速。
- 高山は茶筌、茶道具、編針の産地として有名になる。

高山茶筌の歴史(詳細)

日本の文化と竹との関係は非常に深く、古くから竹は多岐にわたる用途で利用されてきました。その中でも特に注目されるのが茶道具であり、その一つに高山茶筌があります。高山茶筌の歴史は、室町時代中期にさかのぼります。高山領主の次男・宗砌が茶道の創始者とされる村田珠光の依頼を受けて作成したのが始まりとされています。この技術は以来、一子相伝で伝えられてきました。

茶筌の製造工程は、原竹を小刀で60~200本に細かく割り、湯で温めながら穂先を徐々に薄く削り、穂を曲げ、面取りし、編み上げるという繊細な作業を要します。用途と流派によって120種類以上の茶筌が存在し、それぞれ異なる製法がありますが、全ては職人の指先の感覚で作り上げられます。これらの茶筌は消耗品でありながら、その美しさで美術品としても高く評価されています。

高山は日本唯一の茶筌の生産地として知られ、その生産量は国内のほとんどを占めています。この地で茶筌作りが盛んになった背景には、500年以上前に室町幕府8将軍足利義政の時代まで遡ります。高山城主の次男宗砌と称名寺の住職でわび茶の創設者とされる村田珠光との親交が深く、茶道にふさわしい道具の制作を依頼されたことが始まりです。この関係性が高山茶筌の発展の基礎を築きました。

高山茶筌が名声を博するきっかけとなったのは、宗砌が献上した茶筌を後土御門天皇が鑑賞し、その繊細な作りを褒め、高穂という名前をつけたことです。これにより高穂茶筌が有名になり、高山という地名もこの出来事にちなんで名付けられました。秘伝とされた製法は、高山城がなくなった後も、特定の家臣によって守られ、一子相伝で伝えられましたが、昭和時代に入り人不足によりこの制度が崩れ、技術が一般に公開されるようになりました。この技術は国の伝統的工芸品に指定されるほど認められています。

高山では茶筌の製造に加えて、茶道具も生産されるようになり、その種類は非常に豊富です。さらに、明治時代の終わりからは編針製造も盛んになり、特に大正時代から毛糸編針の出現により一大発展期を迎えました。戦後の手芸ブームにより編針の需要が加速し、高山は茶筌、茶道具、編針の産地として名声を博しています。これらの

背景には、竹に対する深い理解と技術、そして文化との結びつきがあります。

-高山茶筌