紀州漆器

紀州漆器の歴史~庶民に親しまれた伝統の機能美~

紀州漆器の歴史を年代別にかんたんに紹介

室町時代
- 紀州漆器の始まりとされる、近江系木地師による渋地椀の製作。また、根来寺で僧侶たちによる寺用の什器の製作が紀州漆器の起源の一つとされる。

1585年(天正13年)
- 根来寺の僧侶たちが、自らの什器として「根来塗り」を始める。

1688年(元禄元年)
- 「毛吹草」に紀州漆器のことが「紀伊黒江渋地椀」として紹介される。

1712年(正徳2年)
- 「和漢三才図会」で紀伊の名産として紀州漆器が取り上げられる。

江戸時代中期
- 紀州徳川藩の保護を受け、分業化が進み、安価かつ大量生産が実現。専業の漆器商人や漆器買次商が登場し、黒江での塗物の流通が活性化。

1826年(文政9年)
- 小川屋長兵衛が堅地板物の製作に成功。安政時代には蒔絵による加飾が行われるようになり、長崎や神戸の外商に直売を開始。

明治3年(1870年)
- 本格的な海外貿易が開始され、紀州漆器の回復が進む。

明治12年(1879年)
- 他県産の沈金彫技術が導入される。

明治31年(1898年)
- 京都から蒔絵師を招き、蒔絵の改良が図られる。

昭和24年(1949年)
- 重要漆工業団地として国から指定を受ける。

昭和53年(1978年)2月
- 「紀州漆器」が通商産業省(現経済産業省)より「伝統的工芸品」として指定される。

紀州漆器の歴史(詳細)

紀州漆器の歴史は室町時代にさかのぼります。その起源は、近江から移住した木地師によって渋地椀が作られたことと、根来寺の僧侶たちが寺用の什器を自ら作り始めたことの二つが挙げられます。特に根来寺で作られた塗物は「根来塗」と称され、黒漆で下塗りした上に朱塗を施したもので、使用中に朱塗りが磨滅して黒漆が露出するという特徴がありました。この技法は、秀吉による根来攻めの際に難を逃れた僧によって海南市へ持ち込まれ、広まりました。徳川時代中期には紀州藩の保護のもと、紀州漆器は大いに盛んになりました。

文政9年(1826年)には小川屋長兵衛による堅地板物の製作成功、安政時代には蒔絵による加飾がなされるようになり、長崎や神戸の外商に直売が始まりました。しかし、明治維新による廃藩置県で一時は衰退の危機に瀕しましたが、明治3年に本格的な貿易が始まると徐々に回復しました。明治12年には他県産の沈金彫技術を導入し、明治31年には京都から蒔絵師を招いて蒔絵の改良が行われました。

昭和時代に入ると、天道塗、錦光塗、シルク塗などの新たな塗り技法が考案され、紀州漆器の特長が一層際立つようになりました。昭和24年には重要漆工業団地として国から指定を受け、昭和53年2月には「伝統的工芸品」として通商産業省から紀州漆器が指定されました。これらの歴史的経緯を経て、紀州漆器は和歌山県を代表する伝統産業として、今日に至るまで発展を続けています。

-紀州漆器