紀州へら竿

紀州へら竿の歴史~しなやかで丈夫な伝統の釣り竿~

紀州へら竿の歴史を年代別にかんたんに紹介

江戸時代
- 「江戸和竿」の創始者とされる紀州藩士の松本三郎兵衛が活躍。この時期から紀州における釣り竿との縁が始まる。

1806年
- 「紀伊続風土記」にへら鮒(ゲンゴロウブナ)が文献に初登場。

明治15年(1882年)
- 初代「竿正」溝口象二が大阪で真竹を裂いて削る「削り穂」を考案し、へら竿の製作を始める。

二代目「竿正」時代
- 溝口昇之助が「削り穂」を穂先に使用し、高野竹を原材料に取り入れる。

「竿五郎」椿井五郎時代
- 穂持の素材として高野竹を使用を開始。

後継者による技術の発展
- 「師光」児島光雄と「源竿師」山田岩義が和歌山県橋本市で紀州へら竿の技術を本格的に展開。

2013年
- 紀州へら竿が経済産業大臣によって国の伝統的工芸品に指定される。

2020年度
- 「日本伝統工芸士会会長賞」を受賞。

紀州へら竿の歴史(詳細)

紀州へら竿の歴史は、江戸時代からの「江戸和竿」にその起源を持ち、紀州藩士の松本三郎兵衛が関わっていたとされますが、へら竿自体の技法は江戸和竿からの継承ではなく、独自の発展を遂げました。明治15年(1882年)に大阪で初代「竿正」溝口象二によって創製されたことがその始まりです。彼は真竹を裂いて削る「削り穂」を考案し、これを用いてへら竿を作り始めました。当初はへら釣りだけでなく、チヌ釣りにも使用されていましたが、やがてへらぶな釣り専用の竿として「へら竿」という名前が定着しました。

技術は溝口象二から息子である二代目「竿正」溝口昇之助へと受け継がれ、さらにその弟子である「竿五郎」椿井五郎が高野竹を原材料に使用し始めました。この技術は後に「師光」児島光雄と「源竿師」山田岩義によって和歌山県橋本市へと持ち帰られ、紀州へら竿の技術が本格的に根付きました。紀州へら竿は、黒竹から始まり、真竹、高野竹(スズ竹)、矢竹の組み合わせによって現代に至るまで発展してきました。

紀州へら竿は現在、多くの系統に分かれ、竿銘を用いて区別されています。これらの技術は代々大切に師匠から弟子へと受け継がれ、紀州へら竿を「へら師憧れの竿」としての地位を築きました。2013年には国の伝統的工芸品に指定され、2020年度の全国伝統的工芸品公募展では「日本伝統工芸士会会長賞」を受賞するなど、その技術と美しさが高く評価されています。紀州へら竿の歴史は、高度な技術と匠の精神が息づく、日本の釣り文化を代表する伝統工芸品の一つとして、今日も多くの釣り愛好家に愛され続けています。

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