弓浜絣

弓浜絣の歴史~庶民の生活に沿った伝統の織物~

弓浜絣の歴史を年代別にかんたんに紹介

延宝4年(1676年)
- 境村小室の新平衛が備中国から綿実を持ち帰り、弓ヶ浜地方で綿の栽培が始まる。

寛政年間(18世紀末)
- 飛白(かすり)という染物技法が米子で行われ、これが弓浜絣の発展に寄与した。

1800年前後
- 弓浜絣が成立。初期は縞柄が主流であったが、後に様々な絵柄が施された絵絣へと発展。

明治時代~大正時代
- 全国各地に販売されるようになるものの、その後は繊維業の近代化や化学繊維の発達により衰退。

1970年代
- 保存運動が盛んになり、国の伝統的工芸品指定や県の無形文化財指定などにより伝統的な手織りの良さが見直される。

現代
- 弓浜絣の技術の保存伝承が図られ、綿の栽培、製糸、染色、織り上げまでのすべての製造工程が県の無形文化財に指定されている。

弓浜絣の歴史(詳細)

弓浜絣は、鳥取県西部の伯耆地方、特に弓ヶ浜地方に伝わる伝統工芸品で、綿の栽培と絣織物の製造にその起源があります。延宝4年(1676年)に境村小室の新平衛が備中国(現在の岡山県西半部)より綿実を持ち帰り、藍を用いた絣織物の製造が始まったとされています。また、鳥取県西部は水はけの良い砂地が伯州綿の生産に適していたことから、木綿や綿糸、そして絣の生産地として知られています。

弓浜絣の起源に関しては、備後絣の手法を導入したという説や、寛政年間(18世紀末)に米子で行われていた飛白(かすり)という染物技法が発展したという諸説がありますが、1800年前後に成立していたことは確かです。初期は縞柄が主流でしたが、時間が経つにつれて様々な絵柄を基調とした絵絣が発展しました。

明治時代から大正時代にかけては全国に販売されていましたが、その後は繊維業の近代化や化学繊維の発達により衰退しました。しかし、1970年代からの保存運動により、国の伝統的工芸品指定や県の無形文化財指定を受けるなど、伝統的な手織りの良さが見直され、現代的なインテリアや雑貨などの新しい製品づくりも進んでいます。絣織りには高度な技法が用いられ、縞模様や幾何学模様、松竹梅、鶴亀など様々な模様が施されています。綿の栽培技術の向上により、江戸時代末期には農家の副業として発展しましたが、明治時代に安い外国製綿花の輸入により綿の生産量が減少し、衰退の道をたどるようになりました。

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