赤間硯

赤間硯の歴史~工程の全てにこだわりを感じる伝統硯~

赤間硯の歴史を年代別にかんたんに紹介

1191年
- 鶴岡八幡宮に源頼朝公が奉納した硯が赤間硯とされ、製作が始まっていたとされています。

12世紀末
- 生産が始まり、早くから赤間硯の名称で呼ばれていたことが確認できます。

江戸時代初期
- 「赤間硯」の表記が文献に登場し、下関市(古称「赤間関」)で硯づくりが行われていた。

江戸時代半ば
- 山陽小野田市厚狭地区でも採石が始まる。

18世紀
- 採石の中心が宇部市に移され、宇部市と下関市が産地となっています。

明治時代初期~中期
- 厚狭周辺及び下関(小月周辺)に赤間硯職人が200~300名存在していた時期が最も生産が盛んだった。

1976年
- 赤間硯が通商産業大臣(現在の経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定されました。

昭和52年
- 伝統工芸品・伝統工芸士として国から認定され、昭和51年には赤間硯生産協同組合が発足しました。

赤間硯の歴史(詳細)

赤間硯の製作は、鎌倉時代初期の1191年にさかのぼり、鶴岡八幡宮への奉納記録がその始まりとされています。この時期から800年以上にわたり、赤間硯は製造され続けており、江戸時代初期の文献にもその名が確認できるほど、早くから高い評価を受けていました。赤間硯の名前の由来は、製造されていた地域である下関市(古称「赤間関」)にちなんでおり、後に宇部市を含む地域でも生産されるようになりました。

原石は、赤味を帯びた赤色頁岩である赤間石を使用しており、その美しい模様や色合い、硯に適した固さと粘りが特徴です。赤間石は、関門地域から宇部市にかけての一帯で採石されていますが、特に江戸時代半ばからは山陽小野田市厚狭地区でも採石が行われ、現在は宇部市での採石が主流となっています。

赤間硯の製作過程は、職人が採石から硯の完成まで全ての工程を一人で手掛ける伝統的な方法によって行われています。この手法により、吉田松陰など多くの幕末の志士に愛用され、1976年には伝統的工芸品に指定されるなど、その技術と伝統は高く評価されています。

赤間硯の生産は、明治時代には下関市および宇部市西万倉岩倉地区で特に盛んであり、当時は200~300名の職人が活動していたとされます。しかし、現在では後継者不足などの問題に直面しており、生産者数は大幅に減少しています。それにも関わらず、赤間硯は日本文化の一環として、また書道の道具として、その価値を今もなお保ち続けています。

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