八女福島仏壇

八女福島仏壇の歴史~圧倒的な威厳と華やかな風格~

八女福島仏壇の歴史を年代別にかんたんに紹介

奈良時代
- 大円寺の建立など、八女地方に信仰の根強い土地柄が形成される。

江戸時代
- キリシタン禁制が法制化され、仏壇作りが始まる背景が形成される。
- 1821年(文政4年): 指物大工の遠渡三作が荘厳華麗な仏閣の夢を見て仏壇製造を志し、井上利久平、平井三作の両名に協力を求める。
- 1850年頃(嘉永年間): 仏壇製造の技術が確立され、九州における仏壇製造の源流となる。江戸時代末期には仕上師18人、彫刻師7人、仏師7人、絵物師10人を数えるほどに発展。

明治時代
- 住居や生活への各種の制限が解除され、仏壇製造が増加し、産業として確立。
- 1882年(明治15年): 旧・福島町(現・八女市)を中心に囲い、彫刻、宮殿、仕上げの4組合が組織され、今日の発展の基礎が築かれる。

現代
- 広大な産地を持ち、生産を増加させながらも、昔ながらの伝統技法を守り続けている。

八女福島仏壇の歴史(詳細)

八女福島仏壇は、八女地方の深い信仰心と歴史が根底にあります。この地域は奈良時代からの重要な寺院が存在し、江戸時代にキリシタン禁制が法制化された背景のもとで仏壇作りが始まったとされます。特に、江戸時代後期の文政4年(1821年)には、指物大工の遠渡三作が夢に見た荘厳華麗な仏閣を実現するため、井上利久平と平井三作の協力を得て仏壇製造を開始したという逸話が残されています。技術の確立は嘉永年間(1850年頃)と少し遅れており、この時期が九州における仏壇製造の源流となりました。

江戸時代末期には、仕上師、彫刻師、仏師、絵物師など多数の職人が関わり、製品は大きく発展しました。明治維新以降、久留米藩の住居や生活に関する制限が解除されると、仏壇製造はさらに増加し、産業としても確立しました。明治15年(1882年)には、現在の八女市(旧・福島町)を中心に彫刻、宮殿、仕上げなどの4つの組合が組織され、今日に至る発展の基礎が築かれました。この産地は、生産量を増やしながらも昔ながらの伝統技法を守り続けています。

八女福島仏壇は重厚な漆塗り、華麗な金箔や蒔絵、精巧な宮殿や彫刻、金具細工など、職人の技の粋と贅を尽くした作品です。その荘厳かつ華麗なたたずまいは、極楽浄土を思わせる迫力を持ち、「筑後の誇り」として現代にもその伝統を守り続けています。名称は、製造が中心的に行われた現・八女市(旧・福島町)の産地名を冠しており、その名が付けられました。

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