三川内焼

三川内焼の歴史~細部までこだわって作られた温かみある陶磁器~

三川内焼の歴史を年代別にかんたんに紹介

1598年
- 26代平戸藩主松浦鎮信が朝鮮の役で陶工古巨関を連れ帰り、中野で三川内焼(平戸焼/中野焼)の最初の窯を開く。これが三川内焼の始まり。

慶長三年(1598年)
- 松浦鎮信公によって連れ帰られた陶工古巨関が平戸・中野で最初の窯入れを行う。

文化元年(1804年)
- 三川内焼がオランダや中国に輸出され始める。海外の王侯貴族に愛されるようになる。

明治時代
- 三川内皿山が御用窯から民窯に転じ、豊島政治が再建に乗り出し、販路拡張を行う。
- 明治三十二年(1899年)、三川内焼の技術を守るために三川内山に意匠伝習所が創設される。

現代
- 三川内御用窯の技術は伝習所で若い陶工たちに受け継がれ、新しい意匠考案が加わり、現在の三川内焼に伝承されている。

三川内焼の歴史(詳細)

三川内焼の歴史は約400年前、豊臣秀吉による朝鮮の役で始まります。この時、各地の大名たちは秀吉の命により競って朝鮮の陶工を連れ帰りました。26代平戸藩主松浦鎮信が1598年に連れ帰った陶工の一人、古巨関が平戸・中野で最初の窯入れを行い、これが三川内焼の始まりとされています。その後、三川内焼は平戸焼(中野焼)とも呼ばれるようになりました。南蛮交易以降、オランダ商館が長崎出島に移ったことで交易の利を失ったが、三川内焼の誕生と藩の奨励により、三川内皿山の御用窯が年と共に盛大になり、販路を海外に求めるようになりました。輸出用陶磁器の開発に努め、薄手のコーヒー茶碗などが開発され、1804年にはオランダや中国に輸出され、海外の王侯貴族に愛されました。

明治維新を迎え、三川内皿山も御用窯から民窯に転じざるを得なくなりましたが、豊島政治が再建に乗り出し、販路を拡張しました。また、明治32年(1899年)には三川内焼の伝承の技を守るために三川内山に意匠伝習所を創設しました。三川内御用窯の優れた技術は伝習所の指導のもとに若い陶工たちによって受け継がれ、これに新しい意匠考案が加えられて、みごと今日の三川内焼に伝承されています。このように、三川内焼は、韓国陶工によって始められた歴史を持ち、時代と共に発展し続けてきました。

-三川内焼