都城大弓

都城大弓の歴史~しなやかな曲線と風格~

都城大弓の歴史を年代別にかんたんに紹介

江戸時代初期 - 都城の大弓の製法が確立。
1789年(寛政10年)~1830年(文政期) - 「庄内地理志」に都城島津家の記録方による都城の大弓に関する記述がまとめられる。
明治時代 - 鹿児島県川内地区から楠見善治が都城地方に来住し、弓作りがさらに発展。
昭和初期 - 楠見善治の息子蔵吉が台湾、朝鮮、満州まで販路を拡大し、都城を弓の産地として確立。
平成6年(1994年)4月 - 都城の大弓が国の伝統的工芸品に指定される。

都城大弓の歴史(詳細)

都城地方では古くから大弓が生産されており、この地域の弓作りの歴史は豊かであることが記録からも確認できます。最も古い記録である「庄内地理志」によれば、江戸時代の文化・文政から天保にかけて、当時の領主であった都城島津家が領内の様子をまとめたものであり、都城市志和地、金田地区で弓が作られていたこと、また都城島津家にも弓作りの職人がいたことが記されています。大弓の製法は江戸時代初期に確立されたとされ、特に鎌倉武士の気風を保持した薩摩では、武道が推奨され武具の製造が盛んであった中で、都城の大弓は名声が高かったです。

明治時代には、鹿児島県川内地区から楠見善治が弓の材料を求めて都城地方に来住し、弓作りはさらに発展しました。楠見氏は「日置流弓村之次第」の免許を受け、新たな技術を都城地方にもたらしました。特に、善治の息子蔵吉は、多くの弟子を養成し、昭和初期には台湾、朝鮮、満州まで販路を拡大し、都城を弓の産地としての確立に尽力しました。戦後の低迷期を克服し、最盛期には30近くの業者が製造に従事する産地を形成しましたが、グラスファイバー製の弓の普及により従事者は減少しました。

大弓の製作には200以上の工程があり、それらを全て一人の弓師が手仕事で仕上げる伝統があります。都城の大弓の素材には、温暖な気候と豊かな自然が育んだ真竹と黄櫨が使用されます。平成6年4月には国の伝統的工芸品に指定され、わが国唯一の竹弓の産地として、特色ある地域づくりに貢献していることが認められています。このように都城地方の大弓は、歴史的背景、技術の発展、文化的価値を通じて、重要な地位を保持しています。

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