読谷山花織の歴史を年代別にかんたんに紹介
1372年 - 読谷山の宇座出身の泰期が、中山の察度王の王弟として、琉球から初めて中国へ朝貢。琉球と中国の朝貢貿易の始まり。
1420年ごろ - 護佐丸が座喜味へ築城。琉球は大貿易時代を迎え、中国や東南アジア諸国との交易が盛んになり、読谷山花織のルーツとなる絣や浮織の技法が伝来。読谷村で独自の発展を遂げ、読谷山花織が誕生。
明治時代中頃 - 染織技術は時代の波に押され衰退。琉球王国の廃藩置県と共に身分制度廃止。読谷山花織は忘れ去られ、「幻の花織」となる。
1964年 - 読谷村の有志によって、約90年ぶりに読谷山花織が復活。愛好会から始まり、読谷山花織事業協同組合へと発展。沖縄県指定無形文化財、経済産業大臣指定伝統的工芸品として全国に知られるようになる。与那嶺貞が人間国宝に認定される。
読谷山花織の歴史(詳細)
読谷山花織の歴史は、1372年に読谷山の宇座出身の泰期が琉球から初めて中国へ朝貢したことに始まります。この船出は、琉球と中国の朝貢貿易の始まりとなりました。1420年ごろ、護佐丸が座喜味へ築城し、琉球は大貿易時代を迎えます。この時代は中国や東南アジア諸国との交易が盛んで、多くの交易品と共に、読谷山花織のルーツとなる絣や浮織の技法が伝来しました。伝来した技法は、琉球王府時代に独自に織られるようになり、読谷山花織として受け継がれてきました。しかし、明治時代の中頃から時代の波に押され衰退し、沖縄戦争後は人々の記憶から忘れ去られ「幻の花織」となってしまいます。
読谷山花織の起源は室町時代にまでさかのぼり、600年以上の歴史を持ちます。当時、琉球王国の御用布とされ、王族や貴族、読谷村の住民など限られた者しか手にできない織物でした。明治時代の廃藩置県と共に琉球王国が崩壊し、身分制度の廃止により読谷山花織はさらに衰退しました。
この約600年の歴史を誇る読谷山花織は、1964年に読谷村の有志によって約90年ぶりに復活しました。当初は愛好会から始まり、やがて読谷山花織事業協同組合へと発展しました。この復活により、読谷山花織は沖縄県指定無形文化財、経済産業大臣指定伝統的工芸品として全国に知られるようになりました。復活に大いに貢献した与那嶺貞は人間国宝にもなっています。これらの努力により、読谷山花織は今日でもその価値を認められ、広く称賛されています。