読谷山ミンサーの歴史を年代別にかんたんに紹介
15世紀頃 - 読谷山ミンサーのもとになる技法が、中国や東南アジア諸国との交易を通じて琉球に伝来。
16世紀 - 八重山ミンサーの原型となる木綿布が琉球王朝時代の文献に記載される。
1611年(慶長16年) - 琉球で綿の栽培が始まる。薩摩から儀間真常が持ち帰り、読谷山ミンサーの素材として使用されるようになる。
明治時代中期 - 読谷山ミンサーの生産が一時途絶える。
1964年(昭和39年)頃 - 染織家の与那峯貞ら村の人々によって、読谷山ミンサーが約10年の歳月をかけて復活する。
読谷山ミンサーの歴史(詳細)
読谷山ミンサーは、読谷山花織と同じ頃、約600年前に織られるようになったと考えられています。その技術は、アフガニスタンにルーツを持ち、チベット、中国を経由して沖縄に伝えられ発展したものです。琉球は古くから中国や東南アジア諸国との交易が盛んであり、その交易を通じて絣や浮織の技法など、読谷山ミンサーや読谷山花織のもとになる技法も伝来したといわれています。
綿の栽培は1611年、薩摩から儀間真常が琉球に持ち帰ったことに始まります。耕作面積の小ささと収穫量の少なさから、綿は貴重なものとされ、主に女性達が家族や恋人に送る細帯などに使用されました。当時、華やかな意匠の織物であったため、王族や貴族、そして織物が作られていた読谷村の住民のみが身につけることができました。琉球王府御用達に指定されてからは、織り技術がさらに高められました。
しかし、明治時代中期に入ると、読谷山ミンサーの生産は一時途絶え、技術はほぼ忘れ去られました。この状況は、八重山ミンサーにも見られ、その歴史は古く、16世紀の琉球王朝時代にまで遡ります。八重山ミンサーは、中東や中国を経て木綿の織物文化が沖縄に伝わったもので、天然の染料を用いた美しい藍色とピュアな思いが込められた男性用の帯として知られています。
読谷山ミンサーの技術は、1964年に染織家の与那峯貞ら、村の人々の努力によって約10年の歳月をかけて復活しました。この復活は、残っていた祭り衣装やお年寄りの話をもとに行われ、一度は失われた技術が読谷村の情熱と努力によって蘇りました。