みなさん、九谷焼(くたにやき)ってご存知ですか?
九谷焼は、石川県の南部地域で作られている磁器です。写真を見ていただければわかると思いますが、九谷焼は、独特の美しさが特徴的。九谷焼独特の美しい色合いや柄は、今、多くの人の心を捉えています。
今回は、そんな九谷焼の歴史をご紹介します!今まで九谷焼を知らなかった方、九谷焼にご興味を持たれた方、ぜひぜひ読んでみてくださいね〜。
九谷焼のはじまり
九谷焼は、今から300年以上前の江戸時代前期、加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉の奥地)ではじめて焼かれました。九谷村ではじめて焼かれたから、「九谷焼」と命名されました。
九谷焼の事業をはじめたのは、加賀前田藩の支藩である大聖寺藩(現在の加賀市)の初代藩主・前田利治(としはる)。鉱山開発のときに、九谷村で陶石が発見されたのを機に、陶工を有田の製陶法を学ばせ、九谷村で焼いたのがはじまりです。しかし、窯元を開いてから約50年後、突然九谷焼の製造はストップしてしまいます。
その理由は、大聖寺藩の財政難とも、政策転換とも言われていて、今でも確かなことは言えないそうです。
この期間に作られた九谷焼は、「古九谷(こくたに)」と呼ばれています。古九谷は、色彩の美しさが特徴的な色絵磁器で、不透明な白地の素地に、花鳥、山水、風景の図柄が、大胆な構図で描かれたものが多くあります。当時全盛を誇っていた狩野派の画風や、南蛮や中国の影響を受けたと思われる独特の表情が見て取れます。
九谷焼、ふたたび
九谷焼の生産がストップしてからおよそ100年後、江戸時代後期に、九谷焼はふたたび生産されるようになりました。それは、かつて古九谷を生み出した大聖寺藩で、もう一度すばらしい磁器を復活させようという動きが興ったからです。その九谷焼復興の中心人物が大聖寺の城下町に住む豪商・吉田屋伝右衛門(でんえもん)。彼は私財をつぎ込み、九谷焼を焼くための窯を築きました。
彼の作った窯は「吉田屋窯」と言われ、古九谷に迫る芸術性と品質で、採算を度外視して、質の高い九谷焼を生産し、富裕層や知識人から高い評価を得ていたと言われています。
しかし、「吉田屋窯」は7年で閉鎖、その後を受け継いだのは、現場の支配人だった、宮本屋宇右衛門(うえもん)です。彼の窯は「宮本屋窯」と言われ、赤絵のスタイルを取り入れ、当時とても高い評価を得ました。緻密な線で描かれた描写は思わず息を飲んでしまう美しさです。
また、その後には、「松山窯」が開かれ、そこでは、青手の九谷焼制作がされました。青手の九谷焼とは、表面の模様に青色を多く使った九谷焼きのことで、青色と緑色の間のような色で独特の美しさを秘めてます。
世界へはばたく九谷焼
江戸時代後期に復活した九谷焼は、明治時代になると、窯元職人が、「窯元の中の一職人」ではなく、「美術工芸品の作家」として自立し、名工と呼ばれる職人が出てきます。
例えば、竹内吟秋(ぎんしゅう)や、浅井一毫(いちもう)兄弟、初代須田菁華(せいか)、九谷庄三(しょうざ)などの名工がいました。彼らは、九谷焼の質を洗練させることで、九谷焼を美術品として確立させます。また、明治の産業振興により、世界に輸出することによって、新たな販路を見いだすと、熟練の技を使い、欧米向けの作品も作るようになります。
金彩をふんだんにあしらった大きな壺や、細字の超絶技巧を用いた作品などは海外で人気だったようです。
現代の九谷焼
今、九谷焼は、現代芸術のひとつとして位置付けられ、多くのファンがいます。九谷焼の一番の魅力は、なんと言っても、その独特の色と絵柄。九谷五彩(緑、黄、赤、紫、紺青)と呼ばれる和絵具による重厚な絵画調の絵柄が、人々を魅了しているのでしょう。
現代の九谷焼は、現代の生活スタイルに合わせて、多種多様なデザインのものも生まれ、伝統を守りつつも新たな要素を加えて進化し続けています。
おわりに
長い歴史と魅惑的な色と絵柄を持ち、現代の生活スタイルに合わせて進化し続ける九谷焼。今、九谷焼のファンが多いのも納得できますね!
私もファンのひとりです!
みなさんはいかがでしたでしょうか?
ハレトケからの提案
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