江戸木目込人形の歴史を年代別にかんたんに紹介
元文年間(1736~1741): 木目込人形のルーツが京都の『加茂人形』に起源を持つ。京都上加茂神社の神官・堀川家に仕える高橋忠重が奉納箱の残材を用いて、木彫りの人形に刻み目をつけ、衣裳を木目込んで作成。当時は加茂人形・加茂川人形・柳人形と呼ばれていた。
正徳年間(1711~1715): 京都の人形師が江戸に移住し始める。
江戸時代中期: 木目込人形が江戸風に発展し始める。
明治時代後期: 桐塑を型抜きして胴体を作る現在の製造法が導入される。これにより多量生産や形態の多様化が可能になり、様々な種類の木目込人形が作られるようになる。
1970年頃: 木目込人形が家庭の主婦の習い事として流行する。
現代: 経済産業省によって伝統的工芸品「江戸木目込人形」として指定される。雛人形や五月人形制作の際に欠かせない技法として継続されているが、趣味としては下火になっている。
江戸木目込人形の歴史(詳細)
江戸木目込人形の歴史は、約270年前の元文年間(1736~1741)に京都で始まります。この人形のルーツは、京都上加茂神社の神官・堀川家に仕えていた高橋忠重が作った「加茂人形」にあり、彼は神事用の奉納箱を作る際に余った柳の木片を使い、木彫りの人形を作りました。これらの人形には刻み目がつけられ、衣裳が木目込みされていました。当時、加茂人形は加茂川人形や柳人形とも呼ばれていました。
江戸時代中期、京都の人形師たちが江戸に移住する過程で、木目込人形も江戸風に発展しました。明治時代後期には、木彫りの胴体に代わり、桐塑を型抜きして胴体を作る現在の製造法が導入され、多量生産や形態の多様化が可能になりました。これにより、様々な種類の木目込人形が作られるようになりました。
江戸木目込人形は桐の木材を使用し、桐塑を人形型にして溝を彫り布等を入れて仕上げられます。1970年頃には家庭の主婦の習い事として流行しましたが、その後は趣味として下火になりました。現代では雛人形や五月人形制作の際に欠かせない技法として継続されています。経済産業省によって伝統的工芸品「江戸木目込人形」と指定されており、今後の衰退を防ぐために施策が必要であるとされています。大手人形の会社が人形や技法を絶やさないために学校を開設しているものの、次世代の育成が課題となっています。