新潟漆器

新潟漆器の歴史~多彩な表現を魅せる塗りの技法~

新潟漆器の歴史を年代別にかんたんに紹介

1615-24年(元和年間):秋田(能代)の春慶塗が新潟漆器の始まり。
1638年(寛永15年):新潟町の古町通4ノ町に塗物紙店が登場。
1640年(寛永17年):漆器業27戸が存在し、生産額はわずか。
1656年(明暦2年):塗師屋1件、檜物屋6軒、指物屋3軒、漆屋2軒が記録される。
1697年(元禄10年):檜物屋18軒、指物屋14軒、足駄屋84軒が存在。
1761年(宝暦11年):漆器の生産額730両が記録される。
1764-72年(明和年間):三根山藩士・渡邊源蔵、会津若松の畠清兵衛が新潟に来て漆器を改良。
1789年(寛政元年):漆器の生産額2,150両が記録される。
1804-17年(文化年間):金磨塗、銀磨塗が新潟町で始まる。
1838年(天保9年):漆器の生産額3,000両が記録される。
1843年(天保14年):新潟の椀店が会津産と新潟産を扱い、京都、輪島に次ぐ。
1844-48年(弘化年間):会津からの職工が来て蒔絵の技術を導入。
1852年(嘉永5年):塗物店14軒、塗物師73人、職工90人が存在。
1864年(元治元年):椀店15軒、塗物師90軒、木地製作者の指物屋26軒、檜物師90軒、職工300人超が記録される。
1870年(明治3年):東京の鞘塗師・橋本市蔵が竹塗を考案。
1878年(明治11年):漆工147人、描金工12人、生産額7,510円が記録される。
1885年(明治18年):橋本市蔵の高弟・長谷川善左衛門により竹塗が新潟の塗師・吉田久平に伝授される。
1886年(明治19年):漆器業界が組合を結成。
1889年(明治22年):新潟市漆器同業者組合を設立。
1901年(明治34年):県主催の博覧会に新潟市内の漆器出品者が参加し、2位を獲得。漆器製造業者は127戸、木地師52戸、塗師63戸、蒔絵師12戸、職人数280人。
1902年(明治35年):新潟市の工業物生産額のうち漆器が92,569円。
昭和初期(1920年代~1930年代):蠟色塗、磯草塗、花塗、竹塗、金磨塗などの技法がメイン。
1935年(昭和10年):漆器業関係者が366人。漆器同業組合の構成は塗師59人、木地業31人、蒔絵業11人。
1953年(昭和28年):新潟市漆器業青年会を組織。
1955年(昭和30年):新潟市漆器業青年会が新潟漆器研究会と改称。
1958年(昭和33年):新潟市の漆器生産、座卓69%、膳15%、盆1%。
1965年(昭和40年):新潟漆器研究会が活動停止。
1983年(昭和58年):新潟漆器には花塗、蠟色塗、竹塗、金雲塗、錦塗、石目塗、青銅塗、磯草塗などの変塗が存在。製品には座卓、膳、茶櫃、菓子器、重箱などが含まれる。
2003年(平成15年):新潟漆器が国の伝統的工芸品に指定される。

新潟漆器の歴史(詳細)

新潟漆器の歴史は、江戸時代初期の元和年間(1615~1624年)に始まり、秋田(能代)から伝えられた春慶塗がその起源とされています。この時期には板折敷、行厨(弁当箱)、膳、重箱などが製造されていました。1638年(寛永15年)には新潟町の古町通4ノ町に塗物紙店が設置され、漆器業が本格化しました。漆器業はその後も発展し、江戸時代末期には江戸や大阪、北海道に至るまで販路を広げ、新潟漆器は日本有数の漆器産地となりました。

明治時代に入ると、漆器は新潟市の特産品として最大の生産額を誇り、特に竹塗の技法が伝わり、新潟漆器の代表的な塗りの一つとなりました。この時期には、金磨塗や銀磨塗も新潟町で始まり、新潟漆器はさらなる発展を遂げました。

平成15年(2003年)、新潟漆器は国の伝統的工芸品に指定されました。新潟漆器の特徴としては、花塗、蠟色塗、竹塗、金雲塗、錦塗、石目塗、青銅塗、磯草塗、金虫喰塗、木目塗、根来塗、曙塗、紫檀塗など様々な変塗があります。製品には座卓、膳、茶櫃、菓子器、重箱、花台、硯箱、茶道具などが含まれています。

この長い歴史を通じて、新潟漆器は日本の漆器文化において重要な役割を果たし、今日に至るまでその伝統と技術が受け継がれています。

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